【映画】ジャックはしゃべれま1,000(せん)【☆1】

タイトル
ジャックはしゃべれま1,000(せん)
原題
A THOUSAND WORDS
制作年
2012
制作国
アメリ
監督
ブライアン・ロビンス
脚本
ティーヴ・コーレン
原作
なし

データベース
Filmarks | allcinema | IMDb

補足

  • 本レビューの下書き用雑記メモは『Filmarks』に記録している。(該当ページ
    本文は上記のメモをきちんとした形に書き直したものになる。とりたてて整えるところがなければほぼそのままのものをこちらにも書いている。
  • 作品の商品画像部分および楽天ブックスへのリンクのみアフィリエイトリンクになっています。どちらも楽天ブックスアフィリエイトです。
  • 視聴日:2025/11/04(初視聴)
  • 評価:★☆☆☆☆

 


www.youtube.com

 

きっかけ

 先月(※2025年10月)のAmazonビデオレンタルの100円セールのラインナップにあったので何となく観てみることにした。吹替版。

感想

 オー・ヘンリーの『最後の一葉』が薄っすら脳裏に過ぎるような内容。日々中身のない言葉をただひたすら弄し、自己中心的に自分さえ成功していればいい、結果さえ勝ち取ればなんでもいいというような生き方をすることで一見成功者としての豊かな生を謳歌している男が、ある日、一語話すにつき葉が一枚落ちていく木に自分の運命・命を握られることになり……みたいな、コメディータッチのヒューマンドラマ。
彼の人生がこの窮地の中でその歪みきった自己愛から脱却する方向に正されていくというのを、まあ、良くも悪くも(というか悪くもなところもかなり強いが)描いていく。

 まず前提として彼の人生自体は今回の件がなくてもそもそも破綻一直線なものとして存在してしまっているものだったため、仮に今回のような異常事態が起きなかった場合は遠からずどこかで彼の人生は他人を巻き込みつつどこかしらだけでも破れるものとなっていた(ないしは、そのまま横滑りで人生を重ねられていたとしても、他者を苦しめながら生き延びているだけの、彼一人は幸せにやっている鬱々とした平穏を得ていただけであっただろう)。それが何もかもうまくいくように軌道修正されていくものに彼を変えさせたのが本作なのである。

 仕事にしろ家庭にしろ、強い立場にあり、フレンドリーな態度でこそあるけれども自分の快的さだけを守ろうとし、自分自身のケアにしろ、自分がやらなければならないケアにしろ他人任せで自分の労力は可能な限り割こうともせず、ただただふんぞり返って生きてきた男性という主人公像なんかは既に多重にあらゆるものを彷彿させるものになっている。それでいて、痴呆を起こした状態で施設にいて、自分のことを延々夫のことだと思って話し掛けてくる母親がいたり、彼自身も何かに戸惑い、傷付いているところにしろ。アメリカだとか、旧態的な家庭の中における父親だとか。
そういう存在が「木」の形をした理不尽な(それでいて自分で撒いた種から生まれたものそのものである)自分の運命そのものに支配される形で擬似的な障害者と化し、進んでは喋れなくなるという不自由さに縛られることになる。そうして今までは無責任な言動で得ていた安寧から強制的に遠ざけられることで自己を振り返ったり、今まで自分がいろいろを軽んじて弄していたことに対して立ち止まれることになる。つまり強制的に「声を上げられない立場になる=孤独な弱者になる」ことで、強者であるはずの現在の自分がただの孤独な王様であること、そもそも自分は王様なんかじゃない、みんなと同じ地面に立つただの一人の人間であることに主人公も気が付くわけである。そこまでしないと傲慢な愚か者は何も見えないのである。自分も弱者になることで(言うて主人公は最初から最後まで随分と余裕のある、少なくとも作中範囲では豊かさが担保されてはいる立場のままではあるのだけれども)やっとそこに気が付くというのもなかなかグロいなとは振り返ってみるとめちゃくちゃ思うのだけれども(でも現実の似たような愚か者たちもそうなんだろうなというものはままあるものでもあるのである意味だいぶリアルさはある)。彼は疑似弱者にはなるけれども、本当の弱者のところまではそもそも本作ではほとんど近寄りもしないままでもあるんだけれども(コメディー描写の中で扱われはするけれども、そこと同じ場所に立つことは一切ない)。

 
最終的に、日常的に自分が接している目の前に居る人たちという意味での隣人にまずは真摯に接すること、つまりは隣人愛を持つこと、そして特に家族愛と家庭の円満状態における幸福みたいなとこにフォーカスを当てる作品となっていた。
これは最初からそういうものを蔑ろにしている彼を描くことで回収していったところではあるんだけど、なんか終盤にかけてちょこちょこ明文化し難い違和感があった。本作、描いているもの自体は真っすぐしている割に、なんだか取っ散らかった感じも拭えないものがある。おっしゃることはマジでその通りなんだけど、最終的に「別の旧態的なもの」にシフトしている感じというか。最初が個人主義的で都会的で能力主義的な有能さに基づいた社会的成功があらゆる要素を持った強者男性(ただし黒人というアイデンティティーはある)として描かれた上に駄目押しのように郊外の高い所にぽつねんとあるモダンな豪邸という形で集約していたのが、共同体の中で家庭的に生きましょうみたいなお利口さになった感じというか。そりゃその落着が悪いとは言えないんだけども。家も、やはり郊外の、今度は温かみのある住宅街(ザ・ザバービア、コピペ家屋の並ぶ郊外住宅街みたいなものでこそないけど、それでもある種のアメリカンドリームの理想形の一つを意味する場所そのものにしかも黒人夫婦が居を構えるという構造になっている)みたいなところになっていたりとか。理想の豊かさっていうのはそこでしょみたいなのも分かるんだけども、その理想郷に落着するのねというか。
彼は、経済活動で勝って成功すればそれが正しいことになるという立場で仕事をしていたのだけれども、最後には自分がビジネス相手としてかなり雑にふるいにかけ続けていた作家側に転身したりもする。ただここにしたって最初の仕事をただ否定するだけである種身ぎれいなまま、身ぎれいでいられるものとして本作では受け取れる作家業に変わったみたいなことになっていて、それでいいのかよと思ってしまう。資本主義の経済活動そのもののメインストリームと無縁でこそないけれどもそこに対しては(少なくとも本作上では)無責任でいられる、潔癖でいられるものになっただけで、それって何の解決でもないよね?おまえが綺麗でいられるだけだよね?みたいな、ある意味で元の木阿弥状態になってしまっていやしないかというか。会社人のまま、最初にあった自分至上主義から改まる姿を描いてほしかったなあと思った。

 とはいえ、ここで描かれてた類の軽薄さが2025年現在もほぼそのままの形で根強くあることは想像に難くなさ過ぎるもの(というかちょっと歩けばそういうのには容易に目の当たりにできるし、私も無関係とは言えない)なので、とかくコメディー的に誇張してるとも言えないところにはなかなか現実にしんどさを感じるところがあった。
安寧の裡に他人を犠牲にして暮らして来たその自分がいざピンチになったとき、どこで命と引き換えに言葉を発することにするのか、何をどういうタイミングで天秤にかけていくかっていう、道中で発生していくことになる描写なんかも皮肉があって好きである。うわべの軽薄さはもう露骨に出てしまっているその人の根っこの人間性を(コメディータッチではあるけれども)そういうところからもまろび出させていく。あと、そういう自らの窮地から救われるために、インスタントに分かりやすい善行を積んで精算しようとするところの駄目さとか。
「告白」というカードがかなりの覚悟なしにはできないものになっているという設定もこの点でかなり活きているものにはなっていた。自分自身が道を外れて生きていることが、告解室で気楽にお手軽に赦されるはずがないのだもの。軽い言葉、表面的に取り繕った言葉だけではどうにもならないしなるはずもない。そんなのはただ新たにごまかしという化粧をするだけでしかない。

 でもやはり、何か外付けの道徳観だとか通念に寄り掛からずにより善く生きよというのは私としても至上命題だと思ってるので本作の言いたいことの漠然としたところは分かるんだけど、とはいえ、妙にモヤモヤが残る作品ではあった。
終盤で、やはり父親というもののところで何か問題を抱えていたやや奇矯な登場人物が主人公と同じところに収まって話がループするようなところでオチてたりとかにしても、アメリカ(=自分たちの父親的存在)の病んでいるところを描いてるのかなとは思うのだけれども(あと、多分、彼らの父親って恐らく戦後~ベトナム戦争辺りの時代を連想するようになってるのだろう)。その負の連鎖の直接の原因と言える支配者を赦します、そして傷ついてきた過去の自分を救いますというところの内容でもあったわけでなんだけど、そういうところを最終的に核として踏み込む割に妙に宙に浮いてたのが引っかかってるのかもしれない。自分が歪んで存在することになった環境を包んでいるものを赦さないと、言い換えれば、そういうものが自分の中で巣食い続けている状態に見切りをつけない限りは私は救われないというのもそれはそうではあるんだけれども。
自分を夫と重ねる母親に対しても、それを受け入れて受け答えることでその先にやっと彼女が自分のことを息子だと認める瞬間があったりというのもかなり示唆的なものではあったのだけれども。支配的に君臨し続けるだけの存在と重なっている現状を認めることで、何か理想の世界に逃避させられていた息子が目の前の人間として現実に戻ってくるというか。そういうところの描写は好きではあるんだけれども。
なんだこのモヤモヤは。なんだこのモヤモヤは!!!!

 あと、Amazonビデオで観たのだけれども、明らかに字幕がAIちっくだったので気になった(だから途中から翻訳版に変えた)。ちゃんと翻訳者が翻訳した字幕版があるはずの作品なのだけれども、いくらなんでも違和感ゴリゴリであった。よくよく調べてみたら、「字幕版」はまた別に商品が用意されていたので、多分、プロのそれはそっちをレンタルしろということなのだろう(と思いたい)。映画本編末尾に付いている翻訳者情報も、吹替え版のスタッフとキャストしか紹介されていなかったので、真実は闇の中である。
今回見たのは「字幕版」として用意されていなくて、どちらもあるタイプのようなふうに紹介されていたので気付かなかった。今後もこういうのがあったらすごく嫌だなと思ったのだった。