【映画】劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス PROVIDENCE【☆0】

タイトル
劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス PROVIDENCE
原題
---
制作年
2023
制作国
日本
監督
塩谷直義
脚本
深見真冲方丁
原作
なし

データベース
Filmarks | allcinema | IMDb

補足

  • 本レビューの下書き用雑記メモは『Filmarks』に記録している。(該当ページ
    本文は上記のメモをきちんとした形に書き直したものになる。とりたてて整えるところがなければほぼそのままのものをこちらにも書いている。
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  • 視聴日:2025/11/09(初視聴)
  • 評価:☆0

 


www.youtube.com

 

きっかけ

 Amazonビデオにて視聴。シリーズを第一期放送当時から追っているため。

感想

 以降、酷評しております。
 『PSYCHO-PASS』はTVシリーズ第一期からのファンなので、新作を出されると惰性的に観るということを取りあえずしている。ただ、そうやっていくほどに自覚しているけれども個人的には自分が好きな『PSYCHO-PASS』はあくまで虚淵氏脚本の本作であって、それ以外はどんどん心が離れていくものになっている自覚はある。それでも一度好きになった物語ではあるのである程度期待して毎回観てきたのだけれども、TVシリーズPSYCHO-PASS サイコパス 2』(2014年)は『劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス』(2015年、※虚淵氏脚本)を経てさらにもう少し歳月をかけて何とか飲み下せたけれども、続く劇場版の短編三部作(=『PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System』、2019年)からはもうただただ急速に心が離れるばかりというところが更新され続けてきていて、テレビシリーズ『PSYCHO-PASS サイコパス 3』(2019年、※例の三部作映画の後から放送)なんかに至ってはもはやこのままの調子で続けるならこの作品は好きになれないとほとんどそこで見限ってしまっていて、そうして今に至っている。その短編三部作から感じていたけれども、私は『PSYCHO-PASS』の死体をわざわざ観ているという感覚が近い。そして本作『PSYCHO-PASS サイコパス 3 FIRST INSPECTOR』ではもはやいよいよもって続編がこれから先出たところでそれでもこの世界を観たいかと思わされるものとなっていた。落ちた評価を巻き返す気配が一切ないままなのだもの。
そういうわけで本作も開始五分でまた思わされていたけれども、私はあくまで虚淵玄どのの『PSYCHO-PASS』が好きなんだよという感想をそこでもう既に感じていた。だってその時点でもう物語世界に興味を持てるだけのフックがなかったのだもの。
最初の劇場版は本当に好きだった『PSYCHO-PASS』の世界が戻ってきたのと、内容も素晴らしいのとで、アホみたいに劇場に足を運び、関連イベントにもせっせと足を運び、特装版円盤も購入しとはしゃぎにはしゃいでいたけれども、あの楽しかったときはもはや遠い。悲しい。

 本作は新作を出すほどにどんどん興味ない話をしているというか(TVシリーズの2で早速ガクッと落ちて、虚淵氏脚本の劇場版でそれでも何とかめちゃくちゃ上方修正に持ち直せたのも、それ以降はただただ落ちていく一方である)、別に『PSYCHO-PASS』の世界観で観たい話ではなくなっているというか、話を広げるにしても無茶苦茶になっていく一方になっていると思っている。そんなだから本作なんかはいよいよ劇場にも義務感でも直接足を運ぼうとも思えず、レンタルが始まってもすぐに観ないままで数年引き延ばしてきたのだけれども。そして、まあ、観ていて相変わらず心がどんどん虚無に覆われていくばかりの作品のままであった。
繰り返すように劇場版の三部作辺りで、もはや本シリーズは持ち直すことはないというか、虚淵のみ私としては「好きな作品」として認めることになるのだなあと判断してはいたのだけれども、それでもやっぱりコパスの皮は被ってるから一応観てしまうこの業がつらくなってくる。距離を取るのが正解なのよと分かっていても観てしまう。だってめちゃくちゃ好きになったものの皮を被っているから(それももうこの調子だと次があるかはかなり怪しいところまで落ちてしまったが)。

 本作も、大概、お話の内容のお粗末さ(の割に表面上社会派でシリアスぶっている)がすんごいまま、はちゃめちゃ破天荒にフルスロットルなので、冒頭からとにかく早くエンディング曲流れてくれることを願いながら観ていた。賢しげな内容の割にご都合展開も多くて、そのご都合的に人々が馬鹿になっているところにも理由がなくて(特に政治の重役会議みたいな場面とか、もっとそれらしく偉い人たちの傲慢さと愚かしさ、頭の足りなさを描きようがあったと思う……)、登場人物たち全員が意図的にそうなっているからというよりも、作り手側の問題で物語のための駒になってしまっているだけという感じだった。あと生き死にに関しても、「軽んじられる命でありそれを許す世界」ゆえに容易に虚しく摘まれていくわけではなくて、ただただ「物語の進行の都合上で」散っているだけの軽い命でしかないところとか……。
エンディング曲が流れたところで、「今回もやっと終わってくれた」と不健全な感想が先立つものとなっていた。幕引き自体は待て次回を相変わらずやってたけども(直接にはTVシリーズ3に繋がるんだけども)。これで、「新作が出たから見よう、見よう(嫌だーーーー!!!!)」という葛藤からは解放された。そこにほっとしてしまっていた。

 シビュラは新作が出るほどに何かしら新しく取り込むことで自らを更新し続けて上方修正し続けている、そうすることで絶対的な存在としての自分というものをより強固なものにしようとしているのだけれども(人間側が自らの問題としてやっていくべき今現在の在り方の価値観の更新というものを既にしてシビュラのほうがよほど積極的にしているというわけである)、まあそのシビュラシステムにしろ、今回、結果的にというか既定路線というかでその吸収対象になるAI(つまりはシビュラ以上に非人間的なシステム)にしろ、そういった「今を生きている人間」ではない存在に支配されることを許すなとか、全てのシステム(これは人間社会における法などあらゆるものが含まれる)とは、人間と同じ地面に立っているべきであり、国際的にしろ国単位にしろ何らかの範囲の下でその時々に定めて人間同士のルールとして一応は認め合って運用している法というものを用いつつ社会は営まれるべきで、かつまた前者(シビュラ、AI)を残すにしてもそれら全ての機構はその頭上に居るべきではないのだとか、まあ、今回の映画はそういうところを描いている内容であった。だからこそサブタイトルが「PROVIDENCE(神の摂理)」なわけである。
人の上に何かを作れば、人はその上位存在に大人しく付き従って考える脳を持たない家畜として生きることで安寧を得ることになる。その安寧は支配(=絶対的受動的態度になる)されて成り立っているものでしかなく、人間は主体的に生きることはなくなる。その安寧を良しとするのではなくて、その時々の社会の枠組みから生み出される不安定な「正しさ」の中でたゆまず揺れ動きながらその価値観を改めたり闘争したりしつつ生きることこそ生きるということではないのかという、まあ、初代からのいつもの話をしているわけである。
さらにまた、いよいよシビュラのお膝元で、新たな社会システムの在り方はこれなのだと言って法治国家であることを捨てそうな鎖国状態のゆりかごの平和に沈む日本にあって、「それでも法(=つまり本作においては民主主義を守り人間一人一人が主体的に思考して生き続けるための社会の象徴)を存続させるにはもはやこうするしかないってわけ」みたいなところをこれまで以上にさらに行くとこまで行くぜ、暴力でなあ!!!みたいなところに落着させたのも本作である。暴力で以て法の必要性という主張を無理矢理通すの、そこに覚悟がないわけではないのは作品見てて登場人物の気持ちみたいなのはそれなりに分かるけども、本作は特に前半の大部分とか脳みそ既に脂肪分足りてなさそうなだけの人たちのオンパレードでゴリ押しで進んでたのとかもあって、もう少し丁寧に描写重ねた上でそのアクセルの描き方もあったのではないかとかいろいろ気になる。常守朱という、シビュラシステムの下では何をしようが免罪体質(=罪がない、問題がない)となってしまう存在が、国内の目立つところで厚生省公安局長・禾生壌宗を殺害することで無理矢理社会にその歪みを認知させることで、法は残すべきだという「自分の主張」を通すっていうことのどうしようもなさ、どん詰まりはもっと慎重に描くべきところだと思う。これで本作の件は一応のケリがついて、ここに至るまでの苦汁を噛み締めつつ、狡噛さんに言われたように思いっきり泣く常守さんみたいなの見せられても、なんだかなというか、その深刻さみたいなのが、こう……。

 日本はエゴイズムに薄っぺらい平和を享受していて(言うまでもなくその内部も既にぐちゃぐちゃしている)、しかもこのままだとそれでいて自らが都合よく寄生し続けている外国とは価値観がずれていくばかりで(何せ国際法さえ建前すらなく完全に軽視しているレベルになっている)、そのうちどこかで置いていかれてしまう、言い換えれば恐らくは要はどこぞの閉鎖的な独裁国家くらいの距離感の存在になるみたいなところで描いていて、ここにしてもだいぶ先進国とそれ以外という現実と照らし合わせてSFをしているところではあるし、格差を無視してそういう安寧を良しとすることで、自らのその立場を守るために他者を犠牲にし続けるその態度から生まれ続けている紛争だとかの争いがこうした事態を生んでいるんだとかも、ぼつぼつおっしゃることそのとおりなんだけど、繰り返すところもあるけれども、そういうの描くにしても作品描写が雑で取っ散らかっているのだ。そこが問題なのだ。
戦闘に次ぐ戦闘ばっかやってないで、もう少し落ち着いた場面に尺を割いても良かったのではないでしょうかと思う。物語を描くことをほぼ放棄しながらそれらしい話の種は蒔いて、あとはタテに次ぐタテ。戦ってる場面がほしいだけか?とさえ思う。そんな難しい話は一切していないのに、あっちこっちそっちどっちくらいすっ飛んでいくことでいたずらにごちゃごちゃさせていただけだと思う。
あと、本シリーズは無印から何となく賢しげに何らかの引用をすることが共通しているのだけれども、これにしてもうまくやれているのは虚淵氏脚本くらいで、本作なんかはいよいよ雑に聖書を引き合いに出したり、唐突に三好達治の有名な詩を引用したりとかくらいで、スノッブにもなれていない何となく賢そうな感じにしかなれていないので、そうなるならそこはやめてもいいのではないでしょうか……と思った。

 本作はテレビシリーズ3のミッシングリンクの補完をするものでもあるため、この映画のゲスト的な主要登場人物たちはその3期の主役たちとも絡むような立場の登場人物たちでもあったのだけれども、そこもなんかサラーっと物語の上で踊って役目終わりにしかなっていなかった。だから登場人物個人レベルにフォーカスしても味がろくにないままでただ補完だけしているというものになっていた。そもそも3期で視聴者置いてけぼりでこれまでのシリーズを観ていても混乱するわけの分からん間隙を放置して展開していたのも未だになんでやねんと思っているし、こういう形で補完されても相変わらずそこは変わらずに思っている。今回の一番の敵役と言えるポジションのキャラクター(=ピースブレイカー及びそのボス)にしてもやはりただ物語のための駒でしかなくて、その立場の人たちのことを考えるだけのゆとりがなかった。一人一人が何を思ってそれをやったのか、その行動は視聴者としてどういうふうに考えられるかということに対して取り付く島がなくて、とにかく表面的に「こういうものでした」ということが連続して描かれるだけで、「あ、そう」と興味を持たせないものになっていた。だから世界を広げようとしてる割に、世界が全然広がっていない。目の前で延々繰り広げられる暴力の連鎖をただその場面場面を見せられるだけで、こちらがその重たさを考えられるような導線になっていない。作品世界の日本の現状も、諸外国の現状も、そこで敵役が目の当たりにして至った結論にしても、その何をもこちらに向かって深刻に語り掛けるものがない。お話のための道具立て以上のものがない。展開のための道具。で、ED直前に常守さんが暴力的行為で以て自らの意志を貫くということを起こす結論に至ってしまうということを描いていて、こちらとしては何の感慨もない。これらもっと描き方を変えていればもっとずっと重厚にこちらに迫ってくるものになるはずだったのではないのか。
今回は、もはや人間による社会の運用はどうしようもない。ならばAIを神にも等しく見立てようという内容でもあったのだけれども、それなんかも(もう既にシビュラシステムというもので表現していたところとかなり重複するにしても)今現在の世界の鏡になっているはずの要素なのだけれども、ここにしても踏み込みが浅いままなんとなく物語全体の展開と合流するものにしかなっていなかったのも残念だった。もっと見せようがあったと思うのだなあ。
というか、本作はだいぶTVシリーズ向けの内容を無理矢理劇場版にしている感じがずっと付きまとうものにもなっていて、これをTVシリーズとしてやれていたならもっとしっかり描けたところもあったのではないか?とは視聴中時点でずっと思わされていた。
作中であれだけ考えろ、考えろ、法治国家であるならその時々の価値観を、罪と罰を、正義を考えろと言ってるんなら、物語を通して描こうとしているらしいものをもう少し落ち着いて描かんかいって思いました。
法というものが絶対的なものでないこと、価値観は時や場所によって変わるものであること、そしてそれがあれば絶対的に平和な世界が築けるというわけでもないこと、かと言って機能しなければ言わずもがなであることなんかにしたってマジでそれはそうなんだけど、そこを本作一番中心に置いてるだろうに薄味で。結果的に薄味みたいな薄味さ。徹底してシナリオにしろ演出にしろ何もかもが問題があったと思う。
「結果的に」目的のために他者を軽んじて利用することになりました。私は私の正義に則って動いていたのです。もちろん、他者を利用し嘘を重ねたことに何も感じているわけではありませんみたいな人も本作では出てくるのだけれども、そういうところにこちらが何か(他の登場人物の言動も含めて)批判的に捉えられるようにはなっていなかったり。そして、その人が語る「価値観は不安定だけど真実は一つであること、つまりその一つの真実を取り巻く価値観によって判断は変わってくるものであること」みたいなのも、それはそうやねなんだけど、そこがうまく作品全体と絡まるようになっていない。少なくともそういうようなことはいろんなところで言っているけれども、根差すものになっていない。表面的なんだよ。

 PSYCHO-PASS』ってもともとはもっとシンプルな現在と地続きの近未来ディストピアSFであるはずなのだけど、新作を重ねるほどにそこでのテーマを変に話を広げてぐちゃぐちゃにさせてしまっていると思う。
世界を広く描くなら、今回のにしてももっといっそ、一旦、主要人物たちから離れて(ないしはそれらは周縁まで追いやって)描く話にするとかしたほうが、「シビュラシステムの下で運営されてる日本がある世界」というものを多面的深みも持って捉えやすくできると思うのだけれども、結局どれもただ主要人物たちを中心にしたままごちゃごちゃ広げてくばかりである。この意味で3はまだそれができるかもしれなかったんだけれども、お出しされたのはあれなのである。あゝ、あれなのである。虚淵コパスは劇場版で主要人物たちを中心にしつつもああいうふうに世界を広げたけど、いろいろうまくまとめてたのですごいよなあというところになってしまうばかりである。

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 PPP、舞台版であくまで抽象的概念としてそのまま取り入れてた哲学的ゾンビをそのまま物理的に適応させたりもしてたのに、そこに関してだからどうというところだとかにもしてなかったりしてたりしてて(鑑賞者の思考に委ねるとかそういう余白があるわけでもない)、なんであんないたずらにファットにしたんだろう。調理如何によっては面白くなれた題材ではあったので。自分を支配してもらって導いてもらう対象が違うだけではないかとか。恐ろしいほどふわっと物事が流されていく。
 その舞台版もその抽象概念がふわふわラリーしてるばかりの内容だったんだけども。

 PPPのギギギな感想をある程度書きまとめてても止まらないんだけど、本当にどこまであの路線のままで行くんだろう。頭の中に自分を俯瞰するものが居るのはまあよくあるけれども、そこがあまりに自分の総体と引き離されるとその自分が神の声として君臨することになってしまうんだわとかいう話も、それもそれでおっしゃることはそのとおりだとまあ思うけど、そういう細かい要素要素がちゃんと全体にまとまっていくように整えられてないままいちいちふわふわしてるの。要素要素がふわふわと今回のテーマ的なものの中に括れるところでまとまってはいてそこでふわふわ着地せずに漂ってるの。ウキーーーーー!!!!!!

 細かいこと言えば、本作のボス的な立場のキャラクターを狡噛さんが撃ち殺したときに、常守さんが、「あなたにまたこんなことをさせてしまった」みたいなことを言っていて、恐らくTVシリーズ第一期のそういう立場だった槙島さんとのラストのことを彷彿とさせてるのか何なのかなのかもしれないけれども(あとは最初の劇場版での狡噛さんの立ち回りとかもか?)、意味分かんなくて。単に社会を混乱させて逸脱した、本来法で裁かれるべき人を殺す・殺さないレベルの話なら、本作のみに限ってもあの場面で言うことかよと思うわけで。意味が分からなかった。本作、キャラクターが(あんまりうまくない)物語のために動かされてるだけっていう感じがとにかく強いのだけれども、終盤のそういうところとかもそこが窮まってしまっている感じを受けるばかりだった。