【映画】五日物語【☆1.5】

タイトル
五日物語 ──3つの王国と3人の女
原題
Il racconto dei racconti
制作年
2015
制作国
イタリア、フランス、イギリス
上映時間
133
監督
マッテオ・ガローネ
脚本
エドゥアルト・アルビナティ、ウーゴ・キーティ、マッテオ・ガローネ、マッシモ・ガウディオソ
原作
ジャンバティスタ・バジーレ『ペンタメローネ』(17世紀)

公式サイト
なし
予告編
YouTube
データベース
Filmarks | allcinema | IMDb

 

補足

きっかけ

 何をきっかけにして本作を知ったのかは忘れた。確か、放映当時から少しだけ気になってはいたような気はする。とはいえ、そこまできちんと記憶していたものでもないので、何でレンタルカートに突っ込んでおくに至ったかはやはり思い出せず。まとまった数を円盤レンタルをするにあたってリストの中から適当に選んでいく中でついでに(なんかそこにあったので)借りたという感じだった。動機がすべてふわふわしている。

原作について

 本作は原作付きの映画で、原作は17世紀にジャンバティスタ・バジーレ(※ジャン・アレッシオ・アッバトゥーティスの名で発表)が書き、その没後に刊行された『ペンタメローネ(ペンタメロン)』で、そこに収録されている一部の物語(※「蚤」「生皮を剥がれた老婆」などかと思われる)を抜粋し、それぞれの物語が別々に展開しながらも、大きく一つの連なりのある作品になるように手が加えられている(※原作もそういうところはあるのだが、あくまで、抜粋した上でかなり直截的な形で一つの形にまとまっているという意味でそう書いている)。邦題の『五日物語』はこの『ペンタメローネ(Pentamerone)』を日本語訳したものである。
 原作の正式名称は実は『Lo cunto de li cunti overo lo trattenemiento de peccerille(※イタリア語で、「物語のなかの物語、すなわち幼い者たちの楽しみの場」という意味になる)』であったが、『ペンタメローネ』と呼ばれるようになっていったようである。本作はヨーロッパの中でも最初期の民話集の一つのポジションにあり、後のシャルル・ペローやグリム兄弟が取りあげた物語と類似したものもいくつか収録されている。例えば『眠り姫(いばら姫)』の最古の記録は本作であるというように見られていたりする。こうした点でも非常に興味深い作品である特徴がある。
また、補足しておくと、この「ペンタメローネ」という一般的な呼び名は、古典作品の中でも名高いものの一つであるジョヴァンニ・ボッカッチョの『十日物語(=デカメロンDecameron)』(14世紀の作品)をパロディーしたものになっている。『デカメロン』がギリシア語からきているのと同様、『ペンタメローネ』もギリシア語からきている(※deca+meron、penta+meron)。
この映画の原題は『Il racconto dei racconti』だが、これも上記のように「物語の中の物語」あたりの意味になると思われる。原作が古い作品であったり、どうやら独特の方言を用いているもののようなので、あくまで現代の一般的なイタリア語に翻訳したら、この映画版のようなタイトルになるということなのだろうと思われる。

参考:
  • 『世界大百科事典』-「眠り姫」の項目
  • 日本大百科全書』-「ペンタメロン」の項目

 

 ところで、ヨーロッパの民話としても重要な立ち位置にあるだろう本作だが、なぜかこうして映画化を果たしていた当時ですら日本語訳版の再販をしていなかったようであるが(※Amazonレビュー参照)、なんでなんだろうね……。当然ながら日本語訳の古書価格は高騰化している。英訳版はWEB上でも簡単にアクセスできる。
2021年7月現在も絶賛絶版中の唯一の日本語訳版は、大修館書店から出ていて、杉山洋子・三宅忠明両名が翻訳を出掛けている。1995年に単行本を出版、2005年に上下巻に分けて文庫本にしたものが出版された。

感想

 とにかく登場人物たちはほぼ全員エゴイズムに満ちた人々で、あまりにもひどく自己中心的な振る舞いしか見せない(他人のために働いた奇特な者は無惨に殺害されさえする)。愛らしきものを仮に持っている様子は見せても、その心が通じ合うことは絶対にないし、そうでなければただの偏執的なそれでしかない。分かり合わないし分かり合おうともしない。そういった登場人物たちが民話ベースのダークファンタジーを舞台として交差していく、そういう物語群である。
そもそもがそういう作品になっていて内部が断絶し合っているのだから、外部にある鑑賞者と作品との間も断絶してしまっている。作中、断崖絶壁にロープをかけて繋がりを持たせた人物は手酷く扱われ、その行為が報われることはなかったように、そもそもこの作品自体がそうなることを拒絶しているのではないかとも思う。この映画を通してプラスの意味でもマイナスの意味でも、何であれ、「感動」などというものはおよそ発生し得ない。「物語の物語」とそもそも題されている本作は始終淡泊で、飾り気のない童話や民話の世界を読んだ時の感覚をそのまま映画作品に変換していて、その上、何か教訓らしいものだとか、理想的なもの、深層心理に語るようなものなど(※象徴的な匂わせはあるが、それがまともに機能してはいないと思う)、童話や民話が持っているものも排除されてしまっていて、どこまでも無味乾燥とさえ言えるほどに「物語の物語」を観ているだけでしかない。底が浅い物語群と言ってもいいくらいなのだが、これは別に、だからとことん本作は駄作であるとか、つまらないのだということを言っているわけではない。この徹底したある種のストイックさは、本作の場合、ある意味、それだけでも面白いとも思う。

 

 なかなか子ができない妃の嘆きに応え、この冒険に出れば己の命が助かる見込みはないことを承知しながらも、王は、ただひとえに己の命のみを懸けて特効薬となるらしい怪物の心臓を獲りに行く。あまりにも妃中心な考え過ぎるが、この一つの愛ゆえに行動された物語から映画は始まる。
無論、上記にも書いたように、本作によって利他的行動はおよそ報われることはない不文律が出来上がっているため、王はその冒険の成功と引き換えに命を落とす。さてお妃さまはというと、自分のために行動した王の死を形だけでも嘆くことさえせず、彼の傍らにあった怪物の心臓に飛び付いてすぐに城へと引き返すと、(そうやるように言われていた通りに)乙女に調理させたそれを必死に貪る。ちなみに子供はできる(調理した乙女のほうにもできてしまう)が、それはもちろん王の嫡子などではなく、むしろ、海底で静かに生きていた怪物(である白い龍のようなもの)と人間である妃や乙女との間に生まれた子供であり、彼女たちの子供は母は違えど双子のようにそっくりな姿かたちをとって生まれてきてもいる。
 このように開始早々から人物間の断絶や虚しさを見せつけてくる作品なのであるが、こうしたものが物語最後まで品を替えながら続いていくのが本作である。

 

 妃は子を溺愛し、ひたすら己の支配下に置こうとする。自己の延長としてしか子を認めない、子にとっては障害にしかなり得ぬ母の歪んだ愛はやがて彼女の見た目すらもおぞましい姿の化物に変える(※そして定石どおりに息子と乙女の子によって殺されるのであるが、この辺りはかなりユングの心理学などがいうところの物語が持つ象徴性のお手本に分かりやすすぎるくらいに乗っかっている)。
 この母親の物語に相対するのが、蚤を溺愛する(別の国の)王の物語である。蚤に執着し、これを育てる王は、自分の実の娘である姫には全く関心を示さないが、それでもやはり己の支配下には置いておこうとする人物である。
娘が、(夢見がちなところはありながらも、)少女から大人へと、家の中から世界へと出ていくことに憧れていても、彼はひたすらに無関心で、何もせず、何もさせず、ずっと放置(放任ですらもはやない)しておきながら、自分が可愛がっていた大きな蚤が死んでしまうなり、その蚤で革を拵え、その革が何でできているのかを当てた者に娘を嫁がせるなどという突拍子もない御触れを出す。というのも、まさか革の正体を暴ける人物などいないと見込んだ上での御触れなので、彼は蚤の死を利用し、娘の望みを利用し、娘が自分の下から離れられないようにしたかっただけなのである。この父親像が観ていてひたすらに気持ちが悪いし、こちらのトラウマも抉られまくっているしで、だいぶきつい。上記の母親像も母親像でグサグサと刺されるところはあったのだが。本作はこうして歪んだ父性と母性を振り切った形で表現して描き分けているものでもある。
結果、娘のもとにはしっかりとした身分でいかにも(あくまで表面上は)理想の王子様的な人物が幾人も訪れたが、娘自身が求婚に来た者の中でこれはと思った男を父は、革の正体を当てられなかったからという理由でその意思を無視し続ける。そうして父子間のコミュニケーションがないまま、一方的に娘が従属するしかないまま、革の正体をなんとオーグルが言い当ててしまう。当然ながら娘は自分の意思がとことん無視され続けた成れの果てがこうなったのだから、この落着を嫌悪して自死すらしようとする。父親はといえば、彼もさすがに(もともと手放すつもりがなかったのに合わせ)人間ですらない粗野なものに娘を嫁がせることを嫌には思うが何らかの強硬的な手段でこの話を無かったことにしようともせず、娘を説得するほうを選ぶのである。だが、娘が、他の方法では自分の意思が通らないからこそ極端な意志発現方法であるところの自死で駆け引きをしようとすると彼は途端に弱気になり、そのストレスがある程度溜まれば、今度は自分の権威を出して娘を脅すのである。本当に「このクズ……ッ」といった父性の煮凝りである。娘はこの父親を心底軽蔑し、最終的に開き直ってこの婚姻を受けてやることにするのである。父親が望む愚行に敢えて従うことによる反逆を選ぶわけだが、そのなけなしの高潔さにも見える選択なき選択が見ていて痛々しく、この娘の未熟さとどこにも行けなさを感じて、とにかくやはり観ていてつらい。彼女は彼女で出奔する勇気もなく、或る意味、ひたすらこのクズな父親に妥協することでよしとし、そうして自分を守ってもいるのである。とにかくえげつないほどのディスコミュニケーションの連続で殴りかかってくる作品である。家庭環境に問題を抱えている視聴者へのヒット率もとにかくえぐいのである。ウワーーーーーーーッ!!!!

 

 何はともあれ、娘はオーグルのもとに嫁ぎ、断崖絶壁の壁の中にある不衛生な棲み処に幽閉されることになる。オーグルとの意思疎通もろくに取れず、ここでもコミュニケーションの断絶が露わになる。そもそもが人間的な生活ができる環境でもないため、絵に描いたような裕福な御姫様の生活をしていた彼女は、一転して、ただの獣の生活を強いられることにもなる。崖にある荒れた棲み処においては娘は何ができるでもなく、ただ毎日相手に粗雑に犯されるだけだ。我慢の限界が来るのも早く、たまたま通りがかった他人を巻き込んでその場所から逃げだすも、その親切な他人たちであるところの旅芸人一座は追ってきたオーグルに皆殺しにされる。そうしてここに至ってようやく彼女はオーグルを自分の手で殺すという選択をするのである。
考えてみればこの選択に至るまでがしたたかで、自分が地上に戻ることができてからそれを実行したとも言えるわけで、棲み処で生活している時にそれをしていたとしたら、食糧を獲ってくる者がいなくなった上で救助を待たないといけないのだから、その辺りのリスクを回避して実行したのだよなあ。脱出は決死の覚悟のものではあったけれど、主にそこで努力したのは親切な他人たちでしかない。
また、娘のオーグルに対する態度も最初からコミュニケーションを諦めたもので、表面的なコミュニケーションができなかったからそれ以上はもう踏み込まなかったというところがあるとも思われる。最初の印象が最悪で、自分の意思が通らなかった結果として彼がいるのだから、猶更、あえて分かり合おうとはしないというものもあったとも思うし、娘は娘で身勝手さと幼稚さがあったから、もはや望めるものでもないというか。この辺りは象徴の意味合いもあるのだろうとは思うが(そもそも娘に対するオーグルというもの自体が象徴の塊として取り込まれていることは間違いないのだが)。彼女もただ受け手として歩んできたところがあるので、自分から何かをするということをしてこなかったところがあるし、それで充分でもあった。父親は間違いなくクソで、そう育たざるを得なかったというところはあるのだが、環境から抜け出せなくなっていた結果、互いに共依存的になって、娘も成長しなくなっていたのだろう。飼い慣らされ、飼い殺され、夢見がちなままで成長もできず、その機会もない。その末が不本意な落着なのだから、オーグルという形をまとった「結果」を彼女が真摯に受け入れるはずもない。オーグルがオーグルなりの優しさらしきものを態度で示していようともそれは変わらない。散々自分を裏切った彼女が抱き締めてくれただけで彼女を許した単純さを彼女は認めない。気を許したその相手の首を背後から掻っ切ってやるのだ。彼女に降りかかっていた、また、彼女のがしてきたディスコミュニケーションの結果が、あのナイフに籠もっていたなあと思うばかりだ。(狂言)自殺騒ぎのときといい、その行き着く先はいつだって暴力的なところにいき、本当の解決には絶対に辿り着かない。

 その後は、血まみれの娘はオーグルの首を土産として城へと戻り、父親に「これがあなたが選んだ婿よ」と見せつけ、恐れをなした父親を屈服させるのだが、このシーンはちょっと爽快感があった。無論、これもまた残酷なシーンではあるのだが。言葉が通じない相手には力を見せつけてその傲慢の鼻を折ってやるとも言える、ディスコミュニケーションの極致、オーグルへのナイフにも等しい行動なのだ。彼女がまだ御姫様だった時、侍女にランスロットの物語を読み聞かせてもらっていたが、愛する人の窮地のときにあっては自らの恥も顧みずに助けに来てくれる騎士(ないし王子様とも言い換えられよう)は彼女にはいない。愛されるという機会がそもそもなかった飼い殺された少女にそんな相手がいるはずもないし、ポッと湧いてくるはずもない。そして旅芸人たち(美少年で王子様的だったのだが)のくだりを思えば、簡単に死に逝く彼らのことを彼女は振り返りもしない。彼女も機会に応えなかったのだ。憧憬を夢見るだけで叶えられなかった少女の寂しい末路がこれである。シャロットの女のように憧れるままに死に逝くこともしない図太さと醜さを持っているのが彼女なのである。これは、徹底して残酷な御伽噺だ。
自分の道は自分で切り開く。この映画はどの話も全て「代償を払って何かを手に入れること」がテーマだったのだが、彼女もこうして自分のこれまでの人生の結果できたものの代償に、血に汚れながら、オークの首を引っ提げながら、臆病なクソ親父の抑圧を潰しながら、そうして自分の意思を通すということを歪んだ形で得ることに成功する。そうして彼女自身が国を統べる王女に変じて、このお話しはめでたしめでたしとなる。この話に限らないが、全然ハッピーエンドではない。夢を見ることをやめ、他人と交わることに目覚めることもないまま力を見出した女の、諦観の物語である。

 

 次の、老婆たちの物語は、ひたすら老いに対する嫌悪をあおる物語であった。とにかくひたすら大体のシーンが気持ちが悪い。

 姉妹である老婆の2人暮らしでそれなりにうまくやってきたのだろうが、ここに色欲に溺れた王が関わることで無茶苦茶になる。歌声は麗しい乙女のようだった姉のその声を聞いた王は欲情し、姉もなんとか突っぱねながらも誘惑に勝てずに乙女のふりを演じる。王に構われていることに気を良くした姉は妹をぞんざいに扱い、いろいろあって実際に肉体の若さを手に入れた姉を目の当たりにした妹はその若さに執着をする。老いらくにあっても尚尽きない強欲が描かれている。姉妹が互いを思いやってはいるようなことが窺えるシーンもあるにはあるが、それにも勝るのは、その実、自身の幸福をこそ最上位に起き、相手のことは考えない身勝手さである。姉は前半で妹を想わず、妹は後半で姉を想わなかった。
 姉が若さを手に入れて王との結婚にこぎつけた時に妹を正体したのは一つの誠実さだったのだろう(残酷ではあるが)。家柄もない礼節もない老婆を自身の結婚式に招くのは相応のリスクがあったはずなのだから。だが、妹はこの招待のそんな心配りを理解せず、だれかれ構わずに姉の招待と自分との関係を話し回り、痴呆を起こしたように、自分は姉なのだから自分も城に置いてくれ、一緒にいたいとひたすら訴え続ける。相手の都合など考えもしない。姉のほうも、妹を痴呆症の祖母だということにして、唯一の肉親だからとか言って城に置いてくれるように歎願してもいいはずだが、まあ、しないのである。ひとりになるのがいやなのは分かるが、ここの妹の醜さは老女であるがゆえに徹底的にとても観ていられない気分の悪さを誘発する(そしてそんな気分になった自分にも嫌気がさす)。
しつこく強請り続けた妹は、今度は、老人のままだから一緒にいられないなら、どうやって若くなったのかを教えてくれと迫り始める。さんざん城で身勝手なふるまいをされ続けて大変な姉は、自分でもどうして若くなれたのかも分からないのだから、適当に「生皮を剥いだのよ」と言い繕う(※この「皮を剥ぐ」というのが象徴的に若さへの転生を表してはいるのだが、この御伽噺はそれが素直に叶うものではない)。そして妹もそれが嘘だとは微塵とも思わない。狂気に犯されたように自分の生皮を剥いでくれる奇特な人物を捜し、そうしてそれが叶い、血塗れの姿で町を彷徨う。
妹は、物語前半部分ではとにかく姉に振り回される可哀相な人物だったのだが、後半ではそうした立場が逆転し、結末に至るころにはさほど同情しなくなってしまっている。そうした印象の変化も含めて、やはり、そんな気分になるところに自己嫌悪も出てくる物語でもある。
そして、若さを取り戻した姉も、それは期間限定のものでしかなく、物語全体をまとめたエンディングの中で老いが戻り始めるのに気が付き、ひっそりとその場から逃げだしていく。

 

 とにかく、ひたすらに折り合わない人々の物語群であった。互いに分かり合うことがなく、その兆しがあれば散っていく。人間の間にあるのは断絶しかない。

 ……と、ここまで長々と書いていてあれだが、鑑賞後の率直とした気持ちとしては、「どうでもいい」が勝っていたところがある。おおよそあまり心に引っかかるところはない。引っかかったとすれば、蚤の王のクソっぷりにトラウマが掻き乱されていたくらいである。クソ~~~~~~~!!!!
始終画面は美しく、服飾も見ごたえがあり、その点も良かったところの一つではあると思う。ただ、民話が元になっているため、童話的、幻想的な世界観でもあるのだが、テキストでそういったものを読んだり聞いたりして想像する世界の曖昧模糊とした想像の美しさにはとても敵わない画面であるなといったことも率直に思った。このシナリオも、映画よりもテキストで観賞するほうが良いと思う。

関連作品・文献等

タイトル
ペンタメローネ
原題
Lo cunto de li cunti overo lo trattenemiento de peccerille
著者
ジャンバッティスタ・バジー
翻訳者
杉山洋子、三宅忠明
出版社
大修館書店
出版年
1995
ISBN
9784469243697

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タイトル
ペンタメローネ
原題
Lo cunto de li cunti overo lo trattenemiento de peccerille
著者
ジャンバッティスタ・バジー
翻訳者
杉山洋子、三宅忠明
出版社
筑摩書房ちくま文庫
出版年
2005
ISBN
9784480421319

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タイトル
ペンタメローネ
原題
Lo cunto de li cunti overo lo trattenemiento de peccerille
著者
ジャンバッティスタ・バジー
翻訳者
杉山洋子、三宅忠明
出版社
筑摩書房ちくま文庫
出版年
2005
ISBN
9784480421326

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