【映画】カッコーの巣の上で【☆4.5】

タイトル
カッコーの巣の上で
原題
One Flew Over the Cuckoo's Nest
制作年
1975
制作国
アメリ
監督
ミロス・フォアマン
脚本
ローレンス・ホーベン、ボー・ゴールドマン
原作
ケン・キージーカッコウの巣の上で』(1962年)

データベース
Filmarks | allcinema | IMDb

補足

  • 本レビューの下書き用雑記メモは『Filmarks』に記録している。(該当ページ
    本文は上記のメモをきちんとした形に書き直したものになる。
  • 作品の商品画像部分および楽天ブックスへのリンクのみアフィリエイトリンクになっています。どちらも楽天ブックスアフィリエイトです。
  • 視聴日:2021/03/10(n度目視聴。3、4回目くらい?)
  • 評価:4.5点

きっかけ

 Netflixで本作のスピンオフドラマ『ラチェット』を制作・公開するというニュースをTwetterやニュースサイトで知ったことが再視聴のきっかけだった。このニュースを知った時点でサクッと再視聴したかったのだが、2020年8月時点ではなぜか動画レンタルが軒並みどこも取り扱っていなかったか、特に使っている所が取り扱っていなかったかで、それから約半年後になってから円盤レンタル(GEOオンライン)でやっと観ることができた次第である。

さて、このスピンオフドラマでは、ラチェットはさも当然のように頭から「悪」として描かれているようである。WEBメディア『FRONNTROW』掲載の記事では以下のように説明されている。

 

 彼女がなぜモンスターへと変化してしまったのかを描く前日譚シリーズで、〔中略〕同時解禁された予告編は、1947年、看護師のラチェットが、北カリフォルニアにある最先端の精神科病院にやってくるところから始まる。上品な服を着こなし、一見すると優雅でしとやかな印象の彼女だが、質問をしてくる男性に突っかかり、自分の桃を勝手に食べた相手に対して血の気が引くようなことをつぶやくなど、病院の中で内側に秘めていた心の闇を徐々に露わにしていく。
 さらに、患者に怪しい言葉を吹き込んだり、食器に謎の液体を混入させたり…、とその行動は次第にエスカレート。果たして彼女はどのような恐ろしい事態を巻き起こすのか!?
〔中略〕
 映画史に残るあの冷徹非情なモンスター“ラチェット”は、いかにして生まれたのか? 確かな実力を誇るキャストとクリエイターが集結し、モンスター・ヴィラン誕生の知られざる秘密を描くNetflixオリジナルシリーズ『ラチェット』は9月18日に配信される。

 

『FRONNTROW』-「サラ・ポールソン×ライアン・マーフィーがあの「狂気の看護婦」の物語をNetflixシリーズ『ラチェット』で描く【予告編】(記事公開日:2020/08/06)」(最終アクセス日:2021/07/27)

 

この記事でも見られるように、彼女を悪と(言い換えてもいいだろう言葉で)断じ、なおかつなぜモンスターへと変化してしまったのかなどというように彼女が説明されていることに疑問を抱いたのである。私はそんなふうに全く捉えていなかったので、かなり驚いたとも言える。だが、調べてみるとどうやら、「AFI's 100 Years...100 Heroes & Villains(『Wikipedia』、最終アクセス日:2021/08/15)」なんかでも、悪役として認知されているらしいことが窺い知られたのだが。もしや原作準拠の話なのかもしれないが、上記の記事には映画史に残るあの冷徹非情なモンスターとあったり、なかなか疑わしいところである。
 ともかくも、そんなに悪役然としていたかしら、いいや、そんなわけあるかいと気になったので再視聴に至ったわけである。ここに関しては再視聴を経てもやはり疑問を強く持っていたので、以下の感想でも触れたいと思う。

 なお、Blu-ray版(EAN:4988135710963)で視聴。字幕。原作小説はいまだに読めておらず。

感想

 先に書いておくが、「cuckoo's nest」は、俗語表現で「精神病院」を指す。「cuckoo」が同じく俗語表現で「馬鹿者、間抜け、気狂い」を意味するところからきている。

1:ラチェットを中心に

 再視聴を経ても尚、やはり、ラチェットを悪(ないし悪役)として断じて捉えるのは、私には無理があると感じた。彼女をそのように否定するということは、社会規範や世間の同調圧力、かくあるべきというラインを定めて自らは道徳的だ平等だとのたまうような、大してそれについて考えてみたこともないくせに倫理だ何だと振りかざす、そこらへんに山ほど転がっている事物や一般人たちをも否定しているようなものだと思う。いわゆる「凡庸な悪」とでも言い換えられるのだろうが(意志薄弱で外の世界を恐れる患者たちにもそれは言えるのだが)、そこへの反省を込めた上でそのように断じるのならば理解もできるだろうが。
相手への無関心さ、手(と、それなりの心)は規則に則って相手のために尽くしているつもりになっているところとか、何らかの危機においてはその事件の渦中にある人物の弱みを突き、正義の顔をして正常さと冷酷さをもって相手を(自殺等へと)追い詰めるようなところ等々、作中におけるあの病院やそれを代表するラチェットの役割の一側面というのは、あくまでも、深く世間一般にも見られるものを映し出したものでしかない。
病院側はあくまでも自分たちが持っている現代科学による治療法全般と秩序に則り、クソ真面目になって疑うことも知らず無邪気に自分たちが抱える理想を振りかざし、そうして自分たちが向き合うべき患者たちを処置している。向き合うことの何たるかを思い直すこともなく、一方的な判断を繰り返し、繰り返していくのが彼らなのである。自分たちの箱の中に居る人々を画一化し、平均化し、顔を無くさせる。結果として一種の腐敗や形骸化が蔓延りもする。
本作では分かりやすく病院とその患者という構図になっているが、上記のようなものはいくらでも構図内容を書き換えられることは想像に難くないだろう。例えば、現代科学を妄信的に受け入れてこれを最良のものとしているような人間を「悪」と切り捨てられるだろうか。もし、ここまで言葉を重ねても「切り捨てられる」と言えるなら、よほど脳みそがシンプルな人なのだなあと思ってしまうが。(補足しておくが、現代科学を否定するわけではない。あくまでも妄信的に無思慮に受け入れているような場合という前提で書いている。)

 そして本作はまた、上記とは切り離せないが、冷徹な秩序による支配の話でもある。
ラチェットという語感からは自然とラチェット(ratchet)を連想するかと思うが、これはいわゆる歯止め、爪車のことである。歯車とその動きを自在に止めることも動かしておくこともできる爪である。もしくはラチェットレンチでもいいだろう。経済学の分野では「ラチェット効果」などというものもある。こちらも少し説明をしておくと、アメリカの経済学者デューゼンベリーが提唱したもので、人間は現在の所得が過去よりも下がったとしても過去の消費水準をそれに合わせて下げることが難しいということを指すもので、一度上がった水準からは降りられなくなるというものである。こうした連想からもなんとなく分かっていただけるとは思うが、本作のラチェットはこの病院の代表者であり、社会の一面の代表者でもあるといえるだろう。あの病院は社会の縮図でもあり、ラチェットに代表される支配者たちは思うがままに権力を行使して思うがままに世界を築くのである。
ちなみに、彼女のファーストネームであるミルドレッドは「穏やかな力」あたりを意味する名前であり、これにラチェットを連想するファミリーネームが続くのだから、なかなか背筋が寒くなる名前が付けられている。作中であの病院を代表する存在と言える彼女は一種の神であり、あの病棟の患者たちをどのように導くのも彼女のてのひらの上にある。その秩序を破壊するのが主人公なのである。

 この『カッコーの巣の上で』におけるラチェットとは、以上のような存在なのであると私は考えている。容易に「悪」であるなどとは決して断じられる存在ではないだろう。ラチェットたち病院側は社会のさまざまをアレゴリー化した存在だ。彼女(たち)を否定すること、悪と処すこと、それこそが残酷で浅はかなことであろう。その否定はそのまま自分たちのほうに返ってくるものなのだ。人間は折り合わず分かり合えないもので(もしくはそれらは非常に難しいもので)、その善意が本当に良い歯車となって回るかは分からない。歪みはそこらじゅうに存在している。笑顔で他人を踏み躙っているものは少なくない。そしてまた、己のなす善意が報いられることは少ない。はてしない絶望、断絶である。それを越えるようなことが起きるようなことは稀にしかない(それが起こることが奇跡なのである)。この世界は残酷なのだ。

 

 ラチェットに関して特に私が好きなシーンは、患者たちが深夜に乱痴気騒ぎを行った翌朝、ビリーが連行されていく中でこの混乱を招いた元凶である主人公を睨むところである。沈黙のうちに彼を咎めて糾弾する、冷徹なまでの秩序の眼差しが表現されていた。彼女は、良くも悪くも厳格に凝り固まった社会の化身なのだ。
それにこのシーンの直後、ビリーが発作的に自殺した時の混乱に乗じてそのまま主人公はこの精神病院を抜けださず、この大混乱状態になっていもいつもの慣習に従わせることで院内の日常を取り戻そうとするラチェットに飛び掛かり、本気でその首を締めたのだが、こうした彼の姿も好きだ。
そもそもこの混乱と悲劇は彼が招いたものとはいえ、これらの一連の流れを観るだけでも、本作の中にある或る種の美しさや複雑な対立構造が要約されていると思う。このカッコーの巣の上で繰り広げられている世界は単純明快に良し悪しを振り分けられはしないのだ。

2:あのカッコーの巣は一つの社会である

 上記でも触れたが、主人公はこうした、病院によって運営されている一種の社会秩序に現れた異分子としてこのコミュニティーに参入してくる(そしてもちろん、繰り返すことになるが、ここでは精神病院に仮託されているだけで、この舞台はそこに収まらない社会の縮図をも描いている。尚且つ、彼がれっきとした「犯罪者」であることも、社会の逸脱者としての重要な前提条件になるのだろう)。彼はこの秩序を不愉快に感じ、掻き回し、破壊し、その社会にこびりついていた問題点を表出させる。
とはいえ、彼はあくまでも病院側にとっては一種のエラー、ウィルス、正すべき存在としてしか見られないし、相手を自分たちの支配対象・保護対象としてしか見ないから、内省も起こらない。それこそがまた一つのエラーではあり、狂った歯車をもはやより改善した形で安定して回せなくなる原因でもあるのだが。要は水と油のようなものである。

 

補足しておくと、そもそもこの精神病院自体が一般社会からはあぶれた上で成り立っている世界でもある。精神病患者たちは社会秩序からはみ出た者たちだと言い換えられるためである(そして患者たちも病院に依存し、ここを出ようとはしない存在でもある)。彼らは彼らなりの規律と理性を持っていたが、それを崩すのはやはりこの主人公なのである。

 

 何はともあれ、主人公の反抗は、病院側に仮託されている存在であるところの「支配者」「社会」にとっては、それは、妄言や混沌の種としか理解されなかった。そしてそれは彼らの視点から見れば正しい判断だったと言えてしまうのである。故に、最後には、その異質な部分は、病院ないし社会にとっての悪というように処理され、排除されてしまうしかなくなってしまったわけである。彼らは機械的な規律のもとでは精神病患者として入院している者たちには冷徹なまでに穏やかであるが、そのように振舞えることの限界が超えれば、無理やりにでも「自分たちの社会にうまく噛み合える歯車」として鋳造し直すという処置をする。この頭の固い支配体系によって主人公は、もはや抵抗のできない、支配者にとっては理想的・都合がよい、従順かつ意志薄弱な被支配者に変形させられてしまうのである。病院側が敷く世界にとっては彼は害悪・障害でしかなかった。何度も言葉を重ねているように、もちろん、あの病院にも重大な欠陥は存在した。だが、本作で重要なのはこうした相容れなさなのだと思う。単純な善悪の話ではないのだ。秩序を築くということの難しさ、自由とは何であるのか。主人公は従順に飼い慣らされて生きる患者たちをつついたが、そのつつき方もひどく乱暴な手付きではあった。患者たちの多くは結局は「楽」に流れているだけで、導き手たちに従うだけだ。やはりそこにも内省はない。目覚めるのは、この社会の中で(主人公同様に)最初からさらに逸脱した存在であった人物(=チーフ)だけで、彼だけが奇跡を起こしてこの冷たい世界から逃走していくのだ。

 巣から飛び立ったあの彼は、社会から差別されてきたネイティブアメリカンであった。唖の振りもし、そうして他の患者たち以上に静かに大人しく、この平安なるカッコーの巣の中で密やかに周囲に紛れて過ごしていた人物なのである。「俺にはできない」と意思が挫けていた彼だけが、ただ主人公の背中を追って事を完遂し、この世界の檻を、自らの檻をぶち破って、もはや、徹底的に管理された静かで安全な冷たい優しさがあるだけの小さな世界を後にできたのである。彼は広大な大自然の中へと姿を消していくが、外の世界は彼にとっては他の人々よりも厳しいものがあるだろう(そして他の患者たちもずっと外の世界にはもはや自分の居場所はないこと、その厳しさに耐えられないだろうことを恐れ続けていた)。彼は、外の世界との繋がりを持っていた主人公とも違う。それでも、鋳直された主人公を目の当たりにした彼は外の世界に出ることを選んだのだ。ひとつの大きな転換点であるが、その未来はこれまでとは異なり、全く先が見えるものではない。そしてこのラストシーンこそ、私は、本作で一番重要な場面だと思う次第でもある。この作品はまさしくこのクライマックスのためにこそある。
自らの意志を目覚めさせてくれた人はこの社会にその魂を殺されてしまった。そして彼はその恩人の肉体を今度は自分の手で殺すことでその恩に報いるしかなかった。このまま外に出れば、きっと、ただの精神病患者の脱走から、殺人者の脱走になるだろうことも厭わず、彼を救い(これが救いになるかどうかも問題ではあるが、本作であのように描かれてきた主人公にとっては「救い」に当たるだろうし、チーフもそれを理解していたらしいからこそ意味があるのである)、残酷な世界へと出て行くのである。生まれ出ずる者の苦しみ、再生する者の希望が、こうした描写の中で描かれていく。大自然の映像から始まった物語は、大自然の映像で終わりを告げる。本作は静かな口調で、しかし力強く、「死んだような平和でしかない世界の殻を割って外の世界で生きること」を語る作品なのだ。自分で書いていて耳が痛い。
本作の邦題は一般に「カッコーの巣の上で」となってしまっているが、原題をきちんと確認すればよくわかるように、「One Flew Over the Cuckoo's Nest」なのである。厳密には、「あのカッコーの巣を越えて飛んでいったもの」。主人公の乱入によって前へ踏み出し、飛び立っていったチーフに仮託したタイトルなのである。そこは忘れてはならないだろう。

 あの精神病院は大きな意味合いでの社会を縮図化したものでもあった。それでいて、ひとつの小さな世界でもあり、外の世界としての社会も存在する。このあたりはメタファーに重なるメタファーで、私には端的に説明できないが、大体言いたいことは上記を通して伝わってはいるだろうとも思いはする。いわゆるわれわれが親しむような社会は、ひたすら悪い面だけあげつらうことをするならば、混沌とした残酷さもある社会でもあるし、理不尽なまでに冷徹な秩序を敷く社会でもある。われわれはその秩序体系がたとえ人間を無視するようなものだろうと飼い慣らされて生きてはいまいか。偽りの平穏に、そのほうが楽だからと流されることで良しとはしてはいまいか等々、本作はそうした問いを投げかけ、幼年期のままで留まろうとする人間たちに警鐘を鳴らしているのではないか。私はそのように感じた。

 

 魂が殺されてしまった主人公をチーフ以外の患者たちが目にすることはなかったけれど、もしも他の人々があの有様を見ていたらどう感じたのだろう。それを見せないためにあの日のうちに彼は事を決行したのだろうとはいえ。優しい世界で生きることに流されている彼らへの、その歪みを見せない目的もあったのかもしれない。彼らに快適な世界の夢を見させ続けるための。
とはいえ、その死体と、奇跡のために破られた檻とを目の当たりにした彼らはどうするのだろうなどとも、答えのないところを考えてしまいもする(檻が破られた時はその騒音によって皆が目覚めて歓喜の騒ぎ声を上げはするのだが)。主人公がロボトミー手術を受けている間、あの病棟には彼が来る前の平穏が訪れていたが、彼がもたらしたトランプ賭博だけは生き残っていた。この辺りも物語のその後にはどのようになっていくのだろう……。それでも、世間から外れた自分たちを冷たい平等さの下で匿ってやる優しい世界に居続けるのだろうか。だが、それを責められるわけでもないし(誰が責められるだろうか。責める人はいるかもしれないが、その行為すら歪みになることは請け合いである。責める人自身はそうとは気付かない鈍さはあるだろうし、そこがまたひとつの皮肉に変じはするだろうけれど)、そうする目的が本作にあるわけでもないのだが。

 

 また、書くところを逸してしまっていたのでこの項目の最後に追いやってしまうが、(あらためて言うまでもなく)エア野球観戦シーンは名場面だと思う。観賞を許されない、何も映らないテレビ画面を目の前にして、主人公が滔々と野球実況を始め、患者たちも周囲に集まってそれに耳をすませ、一緒になってその実況に合わせて狂喜乱舞をする。さも、その空想が現実であるかのように。虚しくも幸せな混沌のあるシーンであった。厳格さによって束縛される娯楽文化を自ら解き放とうとするあがきも胸を打つ。そしてまたここも、社会には自由が必要であることを訴えてもいた箇所の一つであるとも言える。
オーディオコメンタリー曰く、撮影時期と物語舞台の時期には数十年の差があるが、主人公を演じたジャック・ニコルソンは、何を言われるまでもなく、当時の野球試合の細かなことや選手について頭に叩き込んだ上で実際にこのシーンをやってのけたとか。私自身は、役者にしろ作家にしろ、扱う対象について自分ができるだけ徹底して調べた上でやることは当然の努力であるとは思ってはいるが、とはいえ、凄まじいまでのプロ意識を感じる次第である。

3:オーディオコメンタリー感想

 普通に本編を鑑賞した後、オーディオコメンタリーも立て続けに視聴。本作のオーディオコメンタリーを聴くのは初めて。ちなみに自分のためにやっていることではあるが、6時間程度時間をかけて、メモを取りつつ、調べごともしつつ視聴することになったのでちょっとびっくりした。1周目もかなり時間をかけて再視聴してはいたが。

 以下はオーディオコメンタリーを通して知ったこと、興味を持ったことをピックアップしてその感想を述べていく形になる。

 

実際の精神病院を間借りして撮影

 撮影をするためにいくつかの精神病院にロケ地となってくれるように相談してみたが、本作が、ロボトミーや電気療法を当然の治療法として行っていた時代を舞台とし、尚且つこれらを扱うものであったため、精神病院のイメージにとって良くはないとして何件も断られ続けてきたという経緯があるとのこと。
その果てに受け入れてくれた病院は1000床を備える大規模な所だったが、撮影当時はその病床も2、3割埋まっている程度でしかなかったため、1棟まるまる撮影用に借りて自由に撮影させてもらえたという。

 

撮影前の役作り

 監督などの一部スタッフはずっと病院に泊まり込み、院内の観察を重ねて脚本を練っていったという。ひとつの作品を作り上げるのにどれほど入念な下調べが必要となってくるのか、そしてそれがどういう結果になるのかは、本作を観ればよく分かる。胸のうちに刻みたいところである。

 そして撮影にあたってまず撮影地の精神病院の院長に脚本に目を通してもらい、登場する患者たちが実際のどういった病気に当てはまるかという診断をしてもらった。
また、役者は全員1週間前には現地入りし、この病院に入院している本物の患者と接してもらった。その時には、患者1人につき役者1人が付き添うという形で接触させ、その言動および実態がどのようなものであるのかを学ばせたという。この際、あくまでもその病状を観察させるのではなく、「人間観察」をするように指示を出したという。他にも、実際の精神療法の場面にも立ち合わせた。
 本作では、端から端まで訳者たちの演技が自然というか、観ていて違和感をいちいち感じることはないのは、こういった役作りがあったからなのだろう。そしてその学びの場を通してそれを最大限に生かせるだけの能力を役者たち一人ひとりがきちんと具えていたということでもあろう。こうしたところも本作のすばらしい点の一つだと思う。役者が役作りをしっかり真摯に行っている。当然のことだろうとも思うが、いやはや、あまりそう当然のものではないというか、役者としての矜持、能力があり、それを高める努力ができる人って実はそこまで普通のことではないと思う(※日本の一部の役者、監督などが、自分たちが役作りを非常に軽んじていることを自慢げに語っている記事を見たことさえある)。この、鑑賞者には見えないプロ意識があらためて明文化されて窺い知ることができたのもうれしいことである。
このオーディオコメンタリーでは他にもいろいろそうした演技のために行われたことが多々語られていたので、ぜひ聴いてみてほしい。

 

ジャック・ニコルソン以外の役者たち1

 本作では、ジャック・ニコルソン以外は無名の訳者が起用されている。というのも、低予算で撮影するためというシビアな事情がある。
 また、出演者の多くは役者だが、院長役やチーフ役、医者、患者など、一部の出演者たちはアマチュアが演じている。
作中で電気療法を行うシーンがあるが、この直前の廊下のシーンなどは、主要人物の3人以外は全員、この病院の本物の職員と患者たちで構成されている。また、院長役を演じるのも実際の院長である。この院長だが、セリフや登場時間も少なくないのに演技に違和感がない。すごい(患者や医者たちもセリフはなくとも違和感がない。ほとんど日常の延長とはいえ)。
チーフ役には、原作準拠の大柄なネイティブアメリカンの血筋をひく人物を探すのにとにかく相当苦労したようだ。ネイティブアメリカンは実際は170cm程度の人物が多く、理想的な巨躯を持つ彼を見つけられたのも非常な幸運であったとか(オーディオコメンタリーを聞くと分かるが、かなり奇跡的なことが起きて巡り逢っている)。彼の本業は画家であった。演技が拙くとも、そもそもチーフは唖のふりをしている人物なのと動きも少ない人物なのもあって、そこが悪目立ちすることもなかった。この点も幸いしたとか。
 これらの点は総合的に成功したと監督は評している。曰く、ジャック・ニコルソンなら視聴者は分かるが、他の登場人物たちの顔は全く知らない(と言える)。このことによって主人公が異質な世界に飛び込んでいる表現を補強できていると捉えているのである。ここも面白いなと聞いていて思った。映像表現ならではの工夫というか、映画・舞台の文化ありきの大衆を相手にした表現で、それを使って非日常を描き出すというのはなかなかの技巧だ。

 監督が本作を撮影するために精神病院を訪問した時のエピソードも印象的である。彼は、そこに異常な世界が広がっていることを「期待」していたが、そんな人は一人もいなかったのだ。誰もが必死に“普通さ”を装っていたのだ。

 

ジャック・ニコルソン以外の役者たち2

 上記でも役者たちの現地入りにゆとりが持たれていたことは分かることであるが、多忙だったジャック・ニコルソンの現地入りは他の役者よりも遅れていた。そのため、彼が現場に入る時には他の役者たちはすでに自分たちの役に浸りきってしまっていた後だったので、彼の目には他の人々は相当不気味に映ったらしい。昼食時にやってきた彼はこの食事の場から逃げ出し、こんな時にまで役に染まりきっている彼らを気持ち悪がったという。

 ちなみに、役者を選抜するに際しての監督たちの発言も面白かった。主演として決定していたジャック・ニコルソンが忙しくてなかなかスケジュールが確定しなかったからこそ、逆に、他の訳者たちをじっくりと選ぶ時間が取れたのだとか。本作ができるにあたってのいろいろを聞いていると、面白いものを作るためには(有限なものとはいえ極力)時間をかけて取り組むことが大切であるということを深く感じるばかりである。

 

ジャック・ニコルソン以外の役者たち3

 院長と主人公が初接触するシーン(=面接シーン)は、ほとんどアドリブで撮影された。本番になってからやっと実際に刑務所で作成されたようなものに似せた書類を院長は渡され、これによってのみ主人公の情報も初めて知ることができるといったような環境にさらしたとか。そうして至極現実に寄せた状況下で演技させたのである。スタッフが彼に望んだのは、本物の患者と接するときと変わらない態度そのものであった。院長からすれば自然体でそのままこなせばいいとも言えるが、とはいえ、院長にとっても、ジャック・ニコルソンにとっても、かなり難しいところも多かっただろう。しかも、実際には20分間ほどこのシーンはずっと撮影されていたとのことで、惜しくもカットされてしまったシーンが気になるばかりだ。2人がどういうふうに主人公を深掘りし続けたのかは、多分、現状では闇の中だ。

 

でも努力はしたぜ

 主人公は噴水機を持ち上げようと必死になるも持ちあげられなかった。そうして吐き捨てるセリフがでも努力はしたぜである。このセリフを含む一連のシーンを監督たちは重視していることがここで語られている。また、このセリフこそが本作の中心をなすテーマなのであると。噴水機を持ち上げられなかった=奇跡を起こせなかった主人公というのは私も重視していたシーンではあるが、このセリフに関しては意識を持って捉えてはいなかったため、目から鱗だった。そして、ああ、確かに!ともなった。この世界で奇跡を起こそうと自分なりの努力はした、でもできなかった。それでも頑張りはした。良いか悪いかはともかくも、足掻きはした。そうした主人公は最後は潰され、枕の下で足掻いて死ぬことになった。だけど1人だけは確実にその世界に革命を与えられた。切ない。けれど、切ないとアンニュイになるだけではない強さもある。本作から感じ取る人間賛歌は美しさでごまかさないところが好きだなあ。

 

小説と脚本のちがい

 主人公と院長が面接を行っているシーンでは、小説と脚本のちがいについての話もされていた。
「読むもの」という前提がある小説の中だとその会話は自然なものとして成立していても、発話し、演技する必要がある脚本の場合は、それをそのまま引用すると不自然さに転じてしまう。だから、実際にセリフを声に出しながら脚本を書いていったという。
 また、舞台では見過ごされることも、カメラの目を通すとその嘘臭さは暴かれてしまうという話も面白かった。創作に関する話ってなぜこうも面白いのか……。

 

発言メモ

 以降は、オーディオコメンタリー上の監督の発言で特に記録しておきたく思った箇所を直接、引用、羅列していく。文字装飾は筆者による。()での補足・注記も筆者による。
このオーディオコメンタリーを聴いていて良かったことというわけではないが、感じたことの一つは、監督が目指した方向性と私自身が映画を観て感じたことはズレていなかったのだなあという一種の答え合わせができたところである。特に婦長や病院に対する解釈の箇所などがそうだ。

 

最近の演技の悪い傾向なんだが おそらくテレビの影響だと思う 演技を重視するより── セリフ セリフ セリフというように── 会話で押す傾向だ 面白いのは人間の行動なのに── 行動が何もない 私はいつも役者たちに言っていた “ゆっくりでいい” 実生活で何かを話す時は── 言うことを前もって考えて練習したりはしない 考えながら 反応しながら話す そして多くの場合 話す言葉よりも── 顔の表情で多くが語られる 注目すべきは 相手役の表情だ これらのシーン(※筆者註:円陣を組んでる療法シーン)ではそれが特に重要だった 顔の表情を読み取り合うことが大事だった

 

ミロスが言うように── 悪い原作から良い映画を作るのは── 難しくはない だが良い原作から良い映画を作るのは難しい すばらしい原作だと 観客の期待も大きい(※筆者註:話の核となる噴水機が登場するシーンにむけての発言)

 

重要なセリフだ(※筆者註:主人公を労働所に送り返すか否かを院内で話し合うシーンのところ) “邪悪”とは 意識的であれ 無意識的であれ── “善意”から発する “救いたい”という善意 婦長役のキャスティングで決め手になったのは それだ〔中略〕(原作では婦長はいかにも悪役的な造形をされているが)だが 天使の顔の裏に潜む邪悪のほうが── 興味深い気がしてきた そのほうが── サスペンス感がある そして もっと恐ろしく感じられる 外見も 話し方も 行動も穏やかで── 他人を傷つけたりするとは思いもよらない人が── 邪悪だとしたら…… 私が思うに… 邪悪な婦長もそうだが 他人を傷つける行為に及ぶ人たちは── それが善意だと思い込んでる場合が多い 自分のやっていることは正しいのだと確信している

 ほんまそれなとオーディオコメンタリーを聴きながらしみじみと思った箇所である。あくまでも婦長ないし病院側は、自分たちは相手を救う立場にあると思って行動しているに過ぎず、その驕りを自ら省みなかった結果があれなのだ。
 当初、監督は、婦長役のルイーズ・フレッチャーは、原作の厳格なイメージとはかけ離れていると感じたらしい。その上で上記に引用したような答えに辿り着いたという。なんでも、(私は現時点でも未読であるが、)原作の婦長は邪悪と残忍さの権化のように描かれているのだとか。(もしかして婦長を悪役として見る向きがあるのは、みんな原作の話をしているからなのか?!……というのは冗談で、残念ながら、映画の彼女だけを観てそのような感想を述べているらしい人の多いこと、多いこと……。)

 

ジャックの(患者たちに言う)“なぜ出て行かない?”が── この映画の核心をついている 患者の半数以上は自主的に入院してた 彼らのほとんどが一点の“異常”を除けば── “健常”な我々と変わりないんだ “街を歩いてるバカどもと変わるもんか(※筆者註:ジャックが患者たちに言うセリフで、「なのに信じられねえ……」と続く)”

 

鬼婦長のことは誰もが大嫌いだった 邪悪だからだ だが同時に彼女は愛されてた 他人思いの優しい女性だったから だが 彼女は嫌われてた つまり 善と悪は同時に存在し得るもので── 表裏一体なんだ

 

(四つのロケ地候補の病院を見学したが、)どこの病院にも鬼婦長がいた 必ずしも女性ではなく 男性の医師や用務員のことも(あった)

 

“これはチェコの映画だ 私が20年を過ごした社会と同じ状況を描いている 私の人生そのものだ” だから 彼らの気持ちが分かる 我々は 生活しやすいように様々な制度を作る 金を払って それを維持してもらう だが結果として 我々が制度に制圧される こっちが金を払っているのに 私は原作に対してかなりの思い入れがあった ストーリーと登場人物の魅力以外にも このようなメッセージが込められているから

 

ラチェット婦長が印象的なのは 普遍性があるからだ どんな職場にもああいう人がいる 職場に君臨する女王 女性蔑視ではないが… ああいうキャラクターはあちこちにいるから “我が社のラチェット婦長”みたいな言い方をされる どこの職場にもかかわらず1人はいるものだ

 

あの鬼婦長が興味深いのは… 彼女は邪悪の象徴として描かれている だから 私も ソウルも マイケルも── 婦長役を演じる女優には 邪悪の権化のような── 強く残忍なイメージを求めていた そして実は── もちろん 同時にではないが イメージに合いそうな4人の女優に役をオファーした (※筆者註:ここで話者変更)婦長役で面白かったのは 時代の表れだが 女優は 悪役を演じたがらなかった 女性運動が出始めたころだったが 当時 名を馳せていた5人のトップ女優が── 全員 断ってきた ミロスもソウルも僕も 信じられなかった 女性運動の観点からか 女優は悪役を敬遠した 男優であれば 悪役を演じることで── 名を成すことも多いのにね そこでミロスは── ロバート・アルトマンの映画で── 端役を演じるルイーズ・フレッチャーを見て── 僕らに“彼女はどうか”と ルイーズに初めて会った時から 私は少しずつ… 直感ではなく よくよく考えるうちに── 露骨な悪でないほうが強烈ではないかと思い始めた 彼女は自分が邪悪だとは気づかない むしろ 人を救ってるつもりだ とても穏やかで とても優しくて ある意味では 天使のような女性なんだ そのほうが怖い 婦長役の面接に来てもらった時に── “これだ”と思った 彼女を発掘できてよかった 主演女優賞の受賞はみんなで喜び合った 彼女を発掘したミロスにも感謝だ

 このように、婦長像についての話も何度もこのオーディオコメンタリーではされていた。

 

ゾンビにされてしまったジャックを見て チーフは “行くぞ”と言って殺す 役者たちは みんな 撮影に立ち会って ルイーズは泣いてたし 男どもも泣いてた

 

ウィル(※筆者註:チーフ役)の最後のシーンは── 本当に胸を揺さぶられた 撮影するのは彼だけなのに── 全員が出勤してきた 野球観戦のようにみんなで取り囲んで ミロスが“OK”と言うと 大歓声が湧き起こった あの興奮は 今も忘れられない 撮影後 ミロスが “あまりに感動的だ あと1、2時間くれないか 観客のために この反応を1つのシーンに残したい 1、2時間でいい” 僕は“時間はいいから好きに撮ってくれ” それがこのシーンだ(※筆者註:ラスト、ウィルが窓を突き破り、その音によって目覚めた患者が興奮して叫び、次々とほかの人々も目覚めていくところ) 最初にクリスを撮って 次に ベッドの他の連中も 最後のクリス(の興奮した様子)は最高だ まるでカタルシスのような いいシーンになった

 つまり、たまたま役者全員がこのラストシーンを見届けに来たからこそ、あの患者たちの歓喜の騒ぎのシーンも撮られたのだなあと思うと、本作の撮影に関してはとことん奇跡的なできごとが連続してもいたのだなあと思うばかりである。

 

関連作品・文献等

日本語訳は複数回にわたって同じ翻訳者によるものをいくつかの出版社が出版しているが、2021年現在で入手できるもののみここでは紹介しておく。(参考:NDLサーチの検索結果)

 

タイトル
カッコーの巣の上で
原題
One Flew Over the Cuckoo's Nest
著者
ケン・キージー
翻訳者
岩元巌
出版社
パンローリング
出版年
初版:2014年(白水社) | 改訂再編集:2021年(※他にも同翻訳者による本作の翻訳本は複数出版されてきている)
ISBN
9784775942529

データベース
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タイトル
ONE FLEW OVER THE CUCKOO'S NEST
邦題
カッコーの巣の上で
著者
KEN KESEY
出版社
SIGNET BOOKS USA
出版年
1963年
ISBN
9780451163967

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