【映画感想】ブレードランナー【☆4】

タイトル
ブレードランナー クロニクル
原題
BLADE RUNNER ARCHIVAL VERSION
制作年
1982
制作国
アメリ
監督
リドリー・スコット
脚本
ハンプトン・ファンチャー、デヴィッド・ピープルズ
原作
フィリップ・K・ディックアンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968年)

データベース
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補足

きっかけ

 2021年2月某日、何か次に読む小説を選んでいた際に、そういえば、原作の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は既に読んでいるが、その劇場版にあたる『ブレードランナー』はなんとなく避けていたため観たことがないなあと思い至り、せっかくだから観てみるかと思ったことが事の発端である。近年では何やら続編映画も放映されて話題になっていた記憶も新しく(原作のみ知っている身からすると、これもどういうこったいであったのだが)、ついでだから旧作と新作の2本とも観てみようか……とぼんやりと目標を定め、そのために一応原作を再読したのちに本作を視聴した次第である。

 

↓ ちなみに『ブレードランナー2049』の感想記事はこちら ↓

 

 

ブレードランナー』のバージョン

 ところでこの『ブレードランナー』には初見を遠ざける仕様がある(と思う)。少なくとも私はこれもあって今まで手を出す気にならなかったのだが、その仕様とは、なんかやたらめったらあるバージョン差分である。どうやら2021年現在でざっと見たところ、以下の差分が発生しているようだ。

 

  1. 1982年 ワークプリント(試写版)
  2. 1982年 オリジナル劇場公開版
  3. 1982年 インターナショナル劇場公開版、完全版
  4. 1992年 ディレクターズ・カット版
  5. 2007年 ファイナル・カット版
参考サイト:個人ブログ『うめしらべ』-「【ブレードランナー】バージョン違いまとめ【ファイナルカット・クロニクルなど】」、最終アクセス日:2021/03/28

 

5バージョンもあるのである。ちなみに『Wikipedia』の「ブレードランナー」の項目ではもう少し詳細にバージョン差分がまとめられており、またなんかよく分からないが7バージョンに膨れ上がっているのである(※厳密に言えば、「ファイナル・カット版」はさらに「Ultra HD Blu-ray/IMAX版」というものへの分岐も発生しているが、これは本編内容の差分というよりも、映像美や音声のクオリティー向上差分だろう)。その上、市場に乗っている円盤もなんかいろいろ種類があるのである。わけわかんないのである。以下、ざっくり調べたもの(順不同、DVDとBlu-ray分けず)。

 

 

怒涛の如く出てくる円盤たちを前に、「知らんがな」と突っ込みたくなるので特筆した次第である。続編の『2049』のほうも大体こんな調子のようで、ディープなファンも円盤が欲しいだけのファンも大変そうだなと思いもする。
ちなみに、2021年現在で私が映画を観る時に基本的に利用している範囲でまとめると、動画レンタルの『Amazon Prime video』では、「ファイナル・カット版」、「ディレクターズカット 最終版(※上記差分4のものだろう)」の2種類が配信されており、円盤レンタルの『GEO Online』では、「クロニクル版」「ファイナル・カット版」「ディレクターズ・カット 最終版」の3種類がレンタル可能な状態にある。さらにそれぞれ一覧には吹替版・字幕版、DVD版・Blu-ray版が軒を連ねてわけわかんなくなること間違いなしなのである。

ブレードランナー クロニクル

 ちなみに私は今回、『GEO』で円盤レンタルをして観ていたのだが、なんとなく知ってはいたものの怒涛の如く連なるバージョン差分たちを前に早々に嫌気が差したため、多分無難だろうと特にリサーチすることもなく、一番新しく市場に乗っていたところの「クロニクル版」を選んだ次第である。非ファンにとっては差分なんて知ったこっちゃないので……。

 だが、「クロニクル版」が実は複数バージョンを1枚の円盤に納めたなんか豪華なものだったとは露知らず、手元に届くころにはもはやわけわからん選択を迫られることもあるまいと思いながら円盤を再生した私に容赦なく突き付けられたのは再びの差分選択なのであった……。

 

【「クロニクル版」に収録されている差分一覧】

 

この目次を目の当たりにした時に盛大にずっこけた思い出がある意味、本作で一番新鮮に残っている感想である。『ブレードランナー』とは試される大地と見つけたり。事前のリサーチはちゃんとしようなのだろうが、そもそも興味が強いわけでもない作品に対して観る前からそこまでするかよとも思ったりもするわけである。
何はともあれ、ここに至っても選ばされるのかよ、おめーよー! どうでもよいわ!!! と、既にやや愛想を尽かした態度で、今回も、なんか「最終版」とかあるしというわけで最後のものを再生することにした。今まで避けてきたのそういうとこやぞ。

結局、どのバージョンから観たほうがええねん問題

 なにはともあれ、先に結論から言うと、私のように特に本作のファンではない人間が視聴しようと思い立った場合、円盤でレンタルするなら、現状は「クロニクル版」をレンタルし、「最終版」を取りあえず視聴するのが最適解であろうとは思う。監督の目指す表現も一番近い形で叶っているのがこのバージョンなのもあり、とにかく無難なのである。それでもし本作を気に入れば、そのまま別のバージョンを覗いてみることもできるので、「クロニクル版」の円盤はお得だろう。

 また、動画レンタルの場合は同様に「ファイナル・カット版」にあたるものを選択することをオススメする。

感想

 閑話休題。やっと本編の感想に入ることにする。

1. 所感

 最初にかなりざっくりとした世界観説明のあらすじが紹介されるが、この時点でもう原作小説とは別物らしい気配は感じられる。地球上の景色なども原作からイメージするような寂れて未来がなさそうな廃墟的風景とはかけ離れている。視聴前から本作のスクショなどを通してそうした原作との違いはざっくりと把握はしていたが、どうやら本当にだいぶ違うらしいぞとしみじみと気付くことになる(し、実際そうなのだが)。
余談だが、初見のはずなのだが、作中でほぼ全裸スケルトン雨合羽ウーマン(レプリカント)がやたらとガラスを突き破りながら絶命するシーンはなぜか知っていたので不思議なものである。このシーンも大概そうだったが、本作、観ているとプスーッと笑ってしまうシーンが要所要所にあったので、劇場で観るのは難しそうだなとも思った。頭突きでバスルームの壁を突き破るシーンだとか。人外的な描写であったり、「突き破る」ことに何か意味を持たせているのかもしれないが(残念ながら私はそれらに象徴的な意味合いは汲み取れなかった)。

 

 とにかく、そうした初手の感じを含めて最後まで、この劇場版よりも原作小説のほうが私は好きだなあとひたすらに思いながら観ていた次第である。世界観や世界の有様、人間同士や人とアンドロイト(=レプリカント)の距離感、キャラクターの関係性、全体的なテーマなど、とにかく大体全てが原作小説のほうが私は好みだったので、本作とはかなり相容れなかったと言えるだろう。とにかく、観ている間ずっと、私がいかに自分で思っているよりも原作小説を好んでいたかの答え合わせをするような作品であった。
 特に原作小説においてオペラ歌手の職を得て人間社会に潜んでいた女型アンドロイドの設定が大きく変更されていたところなどは本作を観ていて一番嫌に思った点である。原作ではディーヴァとして美しい歌声を披露し、絵画などの芸術も楽しみ、つまり「美」という、人間が古くから執着してきたものを彼女は表現し、感じ取っており、そうした彼女に接触することで(また同時に人間でありながら非人間的な人間にも触れていたことで)主人公のデッカードは人間とアンドロイドの間にあったはずのあわいの曖昧さに気が付いていくのだが、劇場版ではそうした彼女の役割は剥奪されてしまっており、彼女は何かの舞台に立つ多くの女優たちの一人に過ぎず(少なくとも描写される範囲ではその役者としての能力の高さは見られず)、みょうちきりんな格好をして主人公から逃げ惑い、彼に積極的に廃棄処分されるつまらないレプリカントでしかない。原作小説と違い、主人公は彼女を処分することに戸惑いを覚えることはない。
一応補足しておくと、そうした原作の彼女が持っていた役割はヒロインやロイに分担されてはいた。
 他にも、原作小説では知的障害者であった人物を肉体的障害者に変更していたりなどの差異も大きい。原作ではこれに当たる人物もかなり大きく本作が持つ「あわい」の描写等々に加担していたのだから。また彼に関することでもあるが、「キップル(kipple)」という原作小説で登場する造語さえ本作においては出てこないのにも驚いたものである。本作におけるロイのラストとも通じてくる重要なものだと思うのだが。
ただし、本作で彼が住まいとしていたマンションが、きっと過去には富裕層向けのものだったのだろう廃屋に変更されてもいたのだが、そのデザインは単純に私の好みであった。部屋の中をオモチャのような人間でいっぱいにしている不気味さ、寂しさも(あくまで原作を無視すると)良い。フクロウなどの鳥をモチーフにしていたチェス盤などは私も手元に欲しいくらいである。

 

 原作のことを考えなければ素直に面白い作品だと思うが、原作を読まないと補完できない箇所があるような作品でもある。多分、読まずに観ればいささかフワフワしたものになっていただろう。どないせえいうんやという思いを抱きながら鑑賞を終えた。
本当に、原作のことは都合良くちょっと忘れて、一つの作品として本作を観るような器用なことができると一番いいと思う。

 

 今回、『ディレクターズカット/ブレードランナー最終版』を鑑賞したが、Blu-rayディスクに収録されている特典に各バージョンに対する監督コメントも収められており、そこの部分だけついでに目を通しもしたが、どうやら、「劇場版(※確認したところ、インターナショナル劇場版も)」では、物語ラスト、デッカードとレイチェルは自然豊かな(?! ※原作を読むと分かるが、およそ有り得ない光景である。劇場版は違うのかもしれないし、心象風景みたいなものなのかもしれないが)場所で車を飛ばし、逃亡成功、自由を勝ち得たのだといった感じの様子で幕を閉じるようである。びっくりした。「最終版」では、主人公たちは逃亡しようとして不穏な空気のままエレベーターに乗って終わるので、かなり違いがある。彼らがその後どうなったのかははぐらかす余韻を轢死させんばかりであるが、「劇場版」のほうの終わり方もあれがただの夢である可能性も無きにしも非ずといったところはあると思うので(異様にキレイ過ぎる画面なので)、あれが監督なりの妥協点だったのかもしれない。監督自身は「劇場版」の終わり方は気に入っていなさそうな様子がコメンタリーからも伺えたのと、自身でも肯定しているように、やはり「最終版」を創作者側が目指した作品だとして観たほうがいいと思う。
 なにせ、「劇場版」ラストが本当のことだとすると、レイチェル(※デッカードレプリカントだった場合、デッカードもだが)だけは特別で、あれだけ作中を通してロイたちが切実に願い続けていた延命や平穏を(多分)何もせぬまま得ていたり、俺たちの命の残りなんて誰も知ることはないぜと朗々と語っていたりしているわけで、そんなもん観たら顔面からススイディングするわという感じになってしまう。せめて夢想の世界の話であれなのではあるが、このラストをとことんポジティブに捕えたのが続編の『ブレードランナー 2049』(※別監督)である。うそやろ……って感じである。

 

 物語ラスト、いよいよレイチェルと共に逃亡を図ろうと玄関を出た所で、主人公はユニコーンの折り紙を拾う。こうしたくだりも折り紙も原作とは一切関係がないシーンである。折り紙は作中の刑事ガフが得意としていたことは明示されていることだったので、彼が家の前まで来ていた(そして彼女をあえて見逃した)らしいことが分かるようになっている。また、ユニコーンに関しては、主人公は作中、夢の中の幻想的な世界でユニコーンを見もしていた(そのユニコーンをガフは敢えて折ったというところに意図を見出すべきでもあるシーンだろう)。
このシーンは上記の監督コメント上でも触れられていることで、曰く、これはデッカード自身もレプリカントである可能性を示唆する意図があったのだとか。作中、いくつかの箇所でデッカードレプリカントである可能性が垣間見える構成になってもいるのだが(※ガフや他の警察連中がただデッカードだけを働かせていたような描写も、人間とレプリカントの差別表現にもなっていたとも思うし……、ロイが最後に落ちそうになっていたデッカードを見下ろして一瞬怪訝な顔をしていたのも彼の瞳に気付いたからかもしれない)、これもその一つであるらしい。原作でもアンドロイドと人間のあわい、どちらであるのかを迷うような存在の曖昧さというものは作中を通していろいろな人物を通して描かれていることなのではあるが、あくまでそうした曖昧さの表現の方向性までも原作と映画版では全然質が異なるものであることは一応書いておく。原作は人間全体にじっとりとした眼差しを向けていたのに比して、映画版はそのへんが爽やかというか、あくまでもデッカードという主人公を見つめているだけという感がある。
また、ガフは始終なんだか冷淡なほどにつかみどころのない男でもあったのだが、彼女も惜しいですな 短い命とはとあえてデッカードに言ったのはある種の警告と突き放しと優しさだったのかもなあと感じもする。ここの箇所を原文ではどう言っていたのかを確認し忘れてしまったが、日本語字幕だと、結局「誰が短い命なのか」をぼかしているようなニュアンスも感じられて、この一言で、レイチェルを指し、レイチェル(たち)を監視していることを指し、レイチェルを気に掛けるデッカードも短命なレプリカントであるという可能性を指してもいるような感じがして、なかなか好きなセリフになっている。
 何はともあれ、この映画版では、デッカードは、レプリカントへの記憶操作(=偽の記憶の埋め込み)によって、レプリカント自身は自分がレプリカントであることに気が付かない状態の可能性を示唆していた。そしてある種の同族殺しを無意識の裡にさせるのである。こうしたものは原作でも登場し(※主人公はあくまで人間で、他の登場人物がそのように描かれるし、それを主人公が疑った人物は人間であると一応明らかになってはいるのだが)、その設定を主人公に転用したような感じになっている。
この映画版の面白いところは、デッカードがかなりダイレクトな形で、上記のように原作の形を変奏しながらアンドロイドか人間かと存在が曖昧になっているところだろうと思う(彼自身はそこに葛藤するわけでもないのだが)。ガフなどは原作における冷酷な刑事(=原作では彼こそがデッカードに実はアンドロイドなのではないかと疑われていた)の役割にあるのかと思ったがさらに輪をかけて淡泊で(多分)普通に人間で、人間だからこそ淡泊で……といったようになっていたり、なんというか、その辺が個人的にはなかなか面白かった。もちろん、このへんも原作の描写もすごく好きなのだが、それはさておき、この映画版の変奏もすごく良かったのである。
ロイがそれが奴隷の一生だとそうした主人公に語るのもかなり面白い。彼がレプリカントである場合、人間に体よく同族殺しをさせられ、こき使われているのだから、あれは彼自身を指して発言してもいたのだと思う(だからなおさら、こうして徹底的に儚い世界を描いてきておいて、夢幻でなければ逃げおおせてハッピーしてるエンド版のズコーッ感はすごいのだが)。

 

 最後に。レイチェルが髪を下ろした時の美しさはすごかった。ものすごい造形美を感じられる一瞬である。まさしく人間の美の極致であるような、人間らしさのない美であるというか。演じてるのは人間の女優さんなのだけれど、レプリカント(=ニセモノ)というものをすごく美しい形で表現できてしまえる女優さんであった。すごい。
 あと、最初から最後までやたら日本や中国的なイメージが溢れていた作品でもある。

2. ロイのキャラクター造形

原作と劇場版における立ち位置のちがい

 別枠を設けて語りたくなったので、ロイについてここで語る。

 

 劇場版と原作の違いは上記で触れたような箇所など数あれど、劇場版を軸にして観た場合の最も印象的で際立った変更点といえるのが、ロイのキャラクター造形である。
 原作においては、ロイという男型のアンドロイドは、最初から最後まで傲慢でいけ好かない、悪い意味でいかにもマッスルな感じといったものの煮凝りといった存在でしかない。これまで虐げられてきた存在であったからこその反動もあるとはいえ、支配者然として振舞い、何もせず、狡猾に振舞い、ラスボス的な立場を獲得しながらも、いざという時には何の役にも立たないままあっさりと死んでいく。その程度の底の浅い、読み手に奇妙な不愉快を引っ掻き傷のように遺していくだけのキャラクターなのである。アンドロイドを処理していくことに嫌気が差していたデッカードですら、その処理に一切の躊躇いや後悔がなかったほどの存在でしかないのである(そしてこの辺りは原作においてはアンドロイドの命というものを作品を通して意識してきた中での最後を飾るわけで、相手がアンドロイドであるか否かという次元を超えた、普遍的な「命の重み」に対する差別感情=殺してもいい命とそうでない命といったものも見出せてしまう作りになっているのかなとも思いもするのだが)。

 

 といった、上記のような原作のロイ像から大きく逸脱したのが、劇場版のロイなのであるが、最初に感想を書いておくと、この差異については非常に好感を覚えた。単純に、原作版ロイが読者にこれといった(少なくともプラス面での)興味を起こさない存在であるのに対し、劇場版ロイは内面が深くその最期を一番の山場として興味を持てる存在になっているといえる。
 ……のだが、こうしたものもなかなか残酷な差別感情ではあるのだが。原作においてはただデッカード(と、作品をのめり込みながら読むような読者の一部)がただ加担していただけのそういった感情を、今度はロイという人物一人だけを通して鑑賞者(※あくまでも原作も読んだ上で劇場版を観ている者に限られるが)に抱かせてしまうのはなかなかエグい構成になっているなあともやや深読みしてしまうところはある。
原作では、生活との板挟みの中であがきながら生きるデッカードの諦念のようなものの中に現状への忌避感と次第に膨らんでいくアンドロイド処理への忌避感が通底しており、それがいよいよオペラ歌手の女性アンドロイドを通して刺々しく彼を苛めて圧迫しながら物語の最後へと向かっていき、そこでしょうもない存在でしかないロイが最後に現れるわけだが、劇場版ではむしろこの進行はほぼ逆で、デッカードはなんかハードボイルドに振舞っているのであまり生活との軋轢といったものは感じず(そこはかとないSF的な終末感はあるが)、最初から倦怠感でも抱いているかのようにレプリカント処理の仕事に嫌気も差していた。そしてそうした彼に最後の最後にレプリカントとして強烈なカウンターを与えるのがロイになっているのである。そのため、あくまで劇場版のみを鑑賞している者であっても、最後の最後になってロイを通してガツンと衝撃を与えられることにはなってはいるのだが。
ただ劇場版は改編部分がいろいろ入り乱れた上でそういう流れにもなっているわけで、上記にまとめたこと以上のものも補足的に差し込んでいかなければならないところでもあるのだが……。例えば、劇場版ではレイチェルと恋愛関係といえるものだろう関係に発展するだとか、デッカードも実はレプリカントである気配があるだとか(※これに関しては賛否両論があり、本作もあえてそういう作り方をしているのだが、続編の『ブレードランナー 2049』はこれを無視し、デッカードを人間として扱っている)。

劇場版におけるロイのさけび

 劇場版のロイはとにかく観ていて胸を打つ。彼のようなアンドロイドは原作にはいなかったと言えるほどに、かなり突き詰めたキャラクター造形をしているといっても過言ではないだろう(原作において彼の役割を演じる女型アンドロイドだってここまでは到達していないし、あえて無機質さは残されていた)。
 自分たちを生み出しておきながら、その創造物に利用価値以上のものを見出さず、その創造物の意思、彼らも生きたいと願うのだということを微塵とも理解しない創造主を、「(レプリカントは)完璧ではあるがゆえに短命であることは仕方ないのだ」などと無責任に陶酔して語る創造主を自らの手で殺すところなど、本当に切ない。「生物工学の神が呼んでいるぞ」と言って彼の両目をぎりぎりと締め付けるように潰す描写など(※確かこのシーンはバージョンによって描かれ方に差分があったはず)、この一連のシーンはある種神話的な様相を帯びてさえいるといえるだろうし、レプリカントを超えて私たち人間にまで届く静かな怒りの叫びでもあったと感じるところでもある。そして科学に溺れて精神的なものはろくに考えなくなった人間というものの愚かしさも。
この創造物と創造主のやり取り、子と親のやり取りのシーンからは、シェリーの『フランケンシュタイン』に通じるものがあることは間違いないだろう。

 

 そして何よりも彼の最期の語りが本作における一番の見せ場と言っても過言ではない。私も、本作を観て一番どこが印象的だったかと訊かれれば、間違いなくこのシーンを上げるだろう。
ロイは、散々追いかけ回した末に屋上から落下しそうになるデッカードを救い上げ、唖然とする相手を前にして以下のように滔々と語る。
恐怖の連続だろう、それが奴隷の一生だ(Quiet an experience to live in fear, isn′t it?)
「おれは お前ら人間には信じられぬものを見てきた オリオン座の近くで燃えた宇宙船や──タンホイザー・ゲートのオーロラ そういう思い出もやがて消える 時が来れば──涙のように 雨のように……その時が来た(Time to die.)」
そうして雨に打たれながら彼の一生は終わる。直前に彼がおもむろに掴んでいた白い鳩がそれと同時に自由を手にして飛び上がる、残酷で美しいシーンである。ちなみに、原文の字幕を見れば分かるように、「to live」と「to die」を用いた構成になっている。

 この作品の「良さ」はこのシーンに詰まっているとすら思っている。それだけに、もう少しここに全体から見て焦点が絞られていくような内容になっていたら、作品全体をひっくるめた印象は違っていただろうなあとも残念にも思いもする。それほどまでに、なんだかこのシーンだけが浮いている。
この劇場版は原作とは異なり、アンドロイド(レプリカント)がどうだとか、あらゆるものの存在のあわいがどうだとかというよりは(原作はこうしたものを徹頭徹尾描いていたのだが)、奴隷身分のレプリカントの悲哀とその意思の在り様に軸を置いているのかなあとも思いもするが、それにしても取っ散らかっている印象ではある。

 とはいえ、まあ、再三書いてきたように、原作とは異なり、同じラスボスのポジションにありながらも、劇場版ではロイとの対峙を通してデッカードの在り方に一矢報いるというべきか、鋭い一撃を放ったような存在になった改変には好感を持っている。劇場版のデッカードもそもそも原作と比べるとだいぶ違うのだが。劇場版デッカードのレイチェルへの性欲・愛欲の出し方が命令的で主導権を握り切ったような残酷なものだったりするのも印象的だったと思う。

関連作品・文献等

タイトル
アンドロイドは電気羊の夢を見るか?
原題
Do Androids Dream of Electric Sheep?
著者
フィリップ・K・ディック
翻訳者
浅倉久志
出版社
早川書房
出版年
初版:1969年(早川書房ハヤカワ・SF・シリーズ) | 改版新装版:1977年(ハヤカワ文庫)
ISBN
9784150102296

データベース
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タイトル
Do Androids Dream of Electric Sheep?
邦題
アンドロイドは電気羊の夢を見るか?
著者
Philip.K.Dick
出版社
BALLANTINE BOOKS
出版年
1968年
ISBN
9780345404473

データベース
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