【映画】ブレードランナー2049【☆0】

タイトル
ブレードランナー 2049
原題
BLADE RUNNER 2049
制作年
2018
制作国
アメリ
監督
ドゥニ・ヴィルヌーヴ
脚本
ハンプトン・ファンチャーマイケル・グリーン
原作
フィリップ・K・ディックアンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968年)、また、映画『ブレードランナー(1982年製作)』の続編として製作される

データベース
Filmarks | allcinema | IMDb

補足

きっかけ

 2021年2月某日、何か次に読む小説を選んでいた際に、そういえば、原作の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は既に読んでいるが、その劇場版にあたる『ブレードランナー』はなんとなく避けていたため観たことがないなあと思い至り、せっかくだから観てみるかと思ったことが事の発端である。近年では何やら続編映画も放映されて話題になっていた記憶も新しく(原作のみ知っている身からすると、これもどういうこったいであったのだが)、ついでだから旧作と新作の2本とも観てみようか……とぼんやりと目標を定め、そのために一応原作を再読したのちに本作を視聴した次第である(※ここまで前回の『ブレードランナー ファイナルカット版』レビューコピペ)。
 この続編が結構高評価そうだったような手触りが傍から見ててもあったのだが、正直、疑いながら観ていた(こちらからすると、なんでやねんオブなんでやねんが過ぎるため)。前作『ブレードランナー』もぼんやりと知っている範囲では全く原作のイメージからはかけ離れていたからこそ、その印象が延長していたところもあったと思う。

 

 そして今回は先に感想の結論を書いてしまえば、そうした不安は的中したわけであったのだが。前作よりも原作の雰囲気を汲んでいるような気もする(あくまでそんな気がするというだけ)が、前作の続編であることをかなり前向きに意識した上で成り立っていたりなんだりで、なんというか中途半端でタイクツで、小難しいこと言おうとしてるのは分かるけどペラッペラ。ひたすらそんなものを長時間観ていたという感じである。私の理解力が欠如してるのかもしれませんがーーー。以下、だいたいこれについてぼちぼち語る場になる。

 

↓ ちなみに『ブレードランナー』の感想記事はこちら ↓

 

 

感想

1. 所感

 まず最初にこの映画を通して感じた自分の趣味指向を表明すると、レプリカント(なりアンドロイドなり人造人間なりetc)の不完全な胎にメスを突き立てるのがなかなかこちらにも刺さったということですね。イイネ……。👍👍👍

 

 さて、本作の感想にまともに入ろうと思うが、まず全体的な感想としては、「なんだか……こう……ゲームのシナリオをそのまま映像化しました」みたいな感じを受けた。もちろん、そんなことはないのだが、なんだかそういうニオイがひたすら鼻に付いたのである。
始終、起伏もぼちぼちあるらしい割に映画作品としては長ったらしく感じていたのも、ひとえにそういうニオイがある作品だったからではないかなーと思ったりする。多分、ゲームとしてコントローラー握りつつシナリオを追うのに向いているシナリオと話の流れだったというか。一応言っておくが、別にゲームシナリオだとかゲームを軽んじて言っているわけではない。あくまで、ゲームという形でやるほうがこの作品向いてたんじゃないの?って話をしているだけである。映画向きではないと感じたという話をしているだけである!
仮にゲームだったら、遊び要素など挟みつつコントローラーを握っている本人が半分(もしくはそれ以上)主体性を伴って操作対象に重なった状態になりつつずっとシナリオを追っていくことにもなるわけだが、そういった形であのシナリオを観たほうが、「よくできた面白いシナリオだなあ」とか言っていたのではないかなと思うわけである。自分が操作している主人公が勇者的ポジションだとミスリードさせられた上で、察してたにしろ、しないにしろ、「あなただと思った?」とか言われて痺れたいわけである。

 

 本作は、映画『ブレードランナー』の続編という立ち位置で制作された作品で、数十年後の未来を描いたものになっている。『ブレードランナー』が2019年に設定を置いた話で、こちらはタイトルにも付いているように2049年に設定を置いているので、実に30年もの開きがある。私からすればディックの原作も、前作の映画版も無視した作品であるという感じでしかないが(よくできた二次創作というか)、とはいえ、少なくとも前作の映画版は観ないといけない内容ではあるので、まあ、続編なんだろうという感じである。言葉の端々ににじみ出ていることからお察し願いたいが、私は本作の評価を「☆0」案件、私の言葉で言うところの「全く微塵もおっそろしく面白くなかった作品」だと思っているので、まあ……お茶も濁るわけです。
 閑話休題閑話休題
 本作では、人間たちはとにもかくにもレプリカントを憎んでおり(どうやら30年の間に確執が深くなったようである。前作はむしろそのへんの表現を手抜かっていたところがあるのだが、こっちはこっちでかなり極端なところはある)、レプリカントたちが任務をこなして社会に貢献していようがいまいが知ったこっちゃねー!って感じになっている。
また、本作では主人公自身もレプリカントであることははっきりしている。前作のデッカードがどちらであるのかは曖昧に濁されていたのとは大違いである(今回は「レプリカントであること(=記憶が容易に作り変えられる曖昧さがあること)」が絶対のキーになるのだからこうなっているのだが)。

 

 少なくとも本作では、原作同様、レプリカント(アンドロイド)は、どちらかというと人造人間ないしホムンクルスに近い存在になっている。たぶん、前作もそういうものだったのだろうが、本作ほどはっきりとそのへんは感じ取れるようにはなっていない。尚且つ、本作では、レプリカント作製技術が発展し、より高度な存在とすることが成功しながらも、レプリカントは人間たちから迫害されているという現状になっているようである。単純に言えば、人間たちからすれば自分たちよりも優れたイキモノがいたら自分たちが支配される側にまわったりその生存にも関わるというエゴが関わってくるから、まあ、そうなるんだろう。
 また、本作の社会で問題となっているのが、「レプリカントが妊娠をしたかもしれない(=人との間にあった壁を越えてしまったかもしれない)」というものである。
とにかく本作では、「レプリカント(アンドロイド)とヒトのあわい」という、原作も前作も形を変えながらも提示していた問題を、前作よりも色濃くレプリカント(アンドロイド)の側から問いかけるという体裁になっていると言える(※重ねて注記しておくが、今回もそれでも原作のそれとは全く毛色が異なる)。
前作にしろ本作にしろ「(あなたは)スペシャル」であるという言い回しこそするが、やはりこうしたところも原作が持たせている意味合いとは全く異なって、単純に文字通りにしか用いられない浅い言葉にしかなっていないところが目立つ。

 

 というか、前作の監督のほうは(はぐらかして受け手の自由に任せているところはあるが、)明らかにデッカードレプリカントにしたがっていたそぶりが強いことは、監督のコメントを通さずとも作品を観ているとひしひしと伝わってきたものだが、本作の監督のほうは、デッカードはヒトであるという大前提のもとでそれを核にして作品を作っているので(※なにせ、レプリカントであるレイチェルと、ヒトであるデッカードが子供を儲けてしまったという話なので)、始終、ナンダカナーという気分が拭えない。だから上記でも「よくできた二次創作」みたいなものだと表現したのだが。ホムンクルスが子を成すとか、しかもヒトと結ばれるとか、そこだけ取ったら大変ロマンもあって好みではあるのだが、これは『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を原作に持つ作品であり、『ブレードランナー』の続編であるので、そのへんの個人的好みで相殺できないところがある。
前作でおいしくはぐらかして一つの作品の出来を高めていたところを削ぎ落して殺したも同然だなあと思ったし、そのマイナスの印象が拭いきれることもなかったのが本作だった。余計なことを……と、私なんぞは思ってしまうわけである。話もひたすら冗長で、前作が原作とかけ離れながらも持たせていた独自の良さも骨抜きにしているというのが本作である。なにやら熱心な『ブレードランナー』ファン(※あくまで劇場版のほうに重きを置くタイプの)には、本作を通して面白く感じられる点も多い様子ではあるが、そこから50歩ほど引いた位置でフラットに鑑賞している一視聴者である私からすれば、ひたすらに無聊さを感じるばかりである。つまり、手持ち無沙汰に思うくらいタイクツってことさ。
特に、前作の主人公であるデッカードと本作の主人公が対面するあたりのシーンなどはそういった意味で山場の趣があった。劇場版の『ドクター・スリープ』のラストのホテル内のシーン観てた時と同じ最悪の気分に近い。本作と劇場版『ドクター・スリープ』は多分、そうでなくてももろもろ親和性が高い。
 閑話休題閑話休題
 本作は、全体的に蛇足の連なりというか、つまりすごく虚無の塊というか、はっきり言って続編なんぞ作らないほうが良かったのではないかと私は思ったような作品でしかなかった。前作の一番最初のバージョンラストを汲んで物語を展開させるにしても、こう描くくらいならやめておけと思った。

 

 改良されある種の進化をしたレプリカントは嘘もつくし、駆け引きもする。型落ち的存在のレイチェルはといえば、なんでかしらんが何かしらの神秘が働いて子供すら儲ける。
自分たちが一つの種となれること、子供を儲けられることとはつまり、自分たちの生存の手綱を自分たちで握れることを意味する。そしてその手綱はホモ・サピエンスであるヒトがその発生の当時からすでに当然のものとして得ていた権利でもある。その当然の権利がないのがレプリカント(アンドロイド)の悲哀なのである。
そういったことが本作においても重要なところなのだろうし、「子供を儲けること」に尺を割いているようには見えるが、そのくせこの問題を深掘りしてはおらず、背中が痒いのに手が届かないみたいなことになっている(そしてそういうところが、私が本作をくだらなく思う要因にもなっている)。本作ではすでにあまりにもレプリカントは悪い意味でただ人間臭く、ヒトとの境界もすでに曖昧なものとしてできあがっていることが描かれこそすれ、ひたすらに「深みはない」の一言に尽きる。ひたすら小難しく見せてるだけで底の浅い展開が続くだけでしかない。そういう作品割とあるわよね……と頭の端でじわじわ思うだけだ。

 また、愛情だとか何だとかが「本物」であるか「偽物」であるかといったことへのこだわりも本作の特徴の一つとなっている。
デッカードのレイチェルへの愛、主人公とヒロインの愛、肉体の有無、ヒトであるかレプリカントであるか。こう書き連ねると何やら面白そうな展開が予想できるかもしれないが、ところがどっこい、しつこく繰り返すが、底が浅い描写が続くだけで、大して琴線に触れることはない。取りあえず問題提起しときますねレベルである。

 記憶ないし記憶操作(による記憶の不確かさ)なども本作の軸になってもいるし、こういう「記憶」を扱ったテーマは個人的にもかなり興味が強いものでもあるのだが、ここまで読むと察していただけるように、これに関してもとにかく(私には)退屈さが勝った。腰を据えて向き合ったところがまるで感じられない。そろそろ「つまらない」の表現の語彙残機が無くなってきたなと思いもするわけである。

 

 前作のヒロインであるレイチェルも人並外れた美貌の女優さんが演じていたが、本作のヒロイン(ホログラムの妻)もまた、主人公にとっての理想的なところを持つお人形さん的なホログラム上の人物という設定に適うような大変美しい容姿をしていた。
どちらのヒロインも実際の人間味は無視されたところでの愛をというか、いかにも作り物っぽい愛を描いていたと思う。レイチェルはただ淡々と描かれ、本作はレイチェルもホログラム妻も含めて皮肉を込めて描かれていたというか。ここに関しては、なんだか上から目線みたいな言葉になってしまうが、なんとも言語化しがたい「良さ」を感じた。所詮は作り物の紡ぐ愛。作り物で紡がれる愛。その虚しさと相手を欠いたような孤独というか。その基盤から成り立っていたものがシステムを越えることができたのか、所詮はその檻の中にしかなかったのか、そこは第三者には分かるはずもなく。
本作では、「ガラテア症候群」などという用語が曖昧に登場したりもしていたように、ヒロインたちにはピュグマリオンの物語が投影され、さらには『未来のイヴ』を意識もしたりといったようなことを言外ににおわせてもいるのだろう。それはせやななのではあるが、上記のとおり全体的に退屈な思いで観ていたので、ひどく琴線に触れるまでには至らないことではあるのだが。はっきり言ってどうでもいいという感想のほうが先立つ……。ぐぬぬ

 

 本作におけるレプリカントたちの夢でもあるところの「自分がその特別な存在なのだ」という希望を微かに持ちながら真相を追い、邁進し、最後はデッカードとその本当の子供を再会させるために彼を見送りながらひっそりと雪の中で死んでいく主人公は切なかった。です。~完~

 

 などと長々と冷やかした感想もやっと終わる。本作は、この残酷な世界に生まれ落ちた何でもないレプリカントを主人公にして、密かに期待を持たせながら行動させ、最後にはその叶わなかった夢の前でそれをサポートしながら死んでいくという様子を描いていて、なかなか胸にくるところはあった。あったが、先に書いたように、シナリオの進行はゲーム的で映画向きではなく、内容の陳腐さをごまかすように小手先の小難しさをひたすら披露し、熱心な『ブレードランナー』ファンを意識しすぎた、ただの「よくできた二次創作」的な作品にしかなっていなかった。念のため言っておくが、ここでいう「二次創作的」とは決して二次創作活動を貶しているわけではない。国語力で以て文章の意図を汲んでください。

2. 蛇足

 

 主人公とデッカードが初めて出会うシーンで、シナトラが歌う『one for my baby (and one more for the road)』がジュークボックスを再生するという形で物語に登場していた。シナトラってなんかよく引用されますよね。ちなみにこの曲はシナトラのオリジナル曲というわけではなく、『The sky's the limit(邦題: 青空に踊る)』というミュージカルのために書き下ろされた楽曲で、作曲はハロルド・アーレン、作詞はジョニー・マーサー。シナトラのものはいうなればカバー曲である。1943年の曲で、シナトラ以外にも現在に至るまでにあらゆる人によって歌われてきた曲のようである。(※参考『Wikipedia(英語版)』-「one for my baby (and one more for the road)」)
この曲は現在のデッカードを表す舞台装置にもなっていて、一見、主人公のことを表した曲だと期待させておいて、その実、デッカードを表現する曲になっているのである。そしてあえて例えるならばこの曲の中の主人公が語りかけるバーのマスターらしき「ジョー」という人物が主人公を表しているのだと解釈すればいいのだろう。
 超余談だが、シナトラといえば、言うまでもなくかなり有名な曲だが、『My Way』が好きで、上記の曲を聞いていても少しばかり彷彿とするところはあるのだが、Yes, it was my wayではないんだなあとちょっと思いもする。