- タイトル
- ノスフェラトゥ
- 原題
- Nosferatu
- 制作年
- 2024
- 制作国
- アメリカ、チェコ
- 監督
- ロバート・エガース
- 脚本
- 同上
- 原作
- 小説『ドラキュラ(Dracula)』(ブラム・ストーカー、1897年)、映画吸血鬼ノスフェラトゥ(Nosferatu – Eine Symphonie des Grauens)』(1922年)
補足
- 本レビューの下書き用雑記メモは『Filmarks』に記録している。(該当ページ)
本文は上記のメモをきちんとした形に書き直したものになる。とりたてて整えるところがなければほぼそのままのものをこちらにも書いている。 - 作品の商品画像部分および楽天ブックスへのリンクのみアフィリエイトリンクになっています。どちらも楽天ブックスのアフィリエイトです。
- 視聴日:2026/07/16
- 評価:☆0!
きっかけ
Amazonビデオにて視聴。字幕版。
そもそもそんなに流暢に英語を理解できるわけではないけれども、それでも何となくドラキュラの台詞を薄っすらとリスニングしていると、何か薄っすらリズムよく古風な感じ?にしゃべらせているのがチョットダケ分かる。
吸血鬼には一家言あるので、まあ、日本での放映が決まる前から興味は持っていたし、それなりの期待はしていた作品。2024年にあってあの『ノスフェラトゥ』をどうリメイクするのだろうと楽しみにしていた。結果、駄作と言い切るほどでもないけれども、期待は大いに裏切られまくってしまったが。
感想
本作は、ブラム・ストーカーの小説『ドラキュラ』(1897年)を原作にしつつもいろいろだいぶテコ入れして作られたサイレント映画『吸血鬼ノスフェラトゥ(Nosferatu – Eine Symphonie des Grauens)』(1922年、ドイツ)を基にしたものである。ストーカーのドラキュラがメインとしてはイギリスを舞台にしているのに対し、後者はドイツが舞台になっている。ドイツによる製作だったのもあり、言語もドイツ語である。本作以外にも『吸血鬼ノスフェラトゥ』のリメイク作品はあって、『ノスフェラトゥ(Nosferatu: Phantom der Nacht)』(1979年、西ドイツ)がこれに当たる。これも言語はドイツ語。未視聴なので舞台設定などは分からないが、恐らくドイツだろう。本作はやはり舞台はドイツであるが、言語は英語で作られている。製作がアメリカだからだろうけれども、主人公たちにとっての外国の描写のときにはルーマニア語か何かあちらの言語と思しき言葉を用いていたりしているのだから、なら主人公たちの用いる言語もドイツ語にしてもよかったのではとはなおさら思うところはあるものになっている。あるいは、さらにテコ入れして英語圏に舞台を変えるとか……(そこまですると距離設定の問題とかもいろいろあるのだろうが)。現代のルーマニアがルーマニア語よりもむしろ英語を好んで用いる傾向があったりするようなので、その辺を意識した上でむしろ現代のルーマニアの話にしたりするとか……までいくと、『ノスフェラトゥ』として描きたいものをどう保つかとかが大変ではあるのか。でもどうせ中途半端な気がする作品を作るなら思い切ってほしかった気もする。
本作は、概ね旧版の『ノスフェラトゥ』に倣いつつも、ストーカーの『ドラキュラ』の要素もさらにそれ以上に濃厚にして、ストーカーの『ドラキュラ』にあった「外からやって来るもの」という物語要素が持つ象徴のその一部を意味深なものにして『ノスフェラトゥ』に加えているような感じのものになっている。ただ、そうやっていろいろ意味深に描写はしつつも、制作陣が何を考えてこれを作ったのかがいまいち私には図りかねるようなところもかなりあった。何というか、繰り返すように中途半端なのである。なので、結果、なんかいろいろやってはいるけど、やや規模のデカいNTRものだったなあみたいな印象になってしまっているというか。原作にあたるストーカーの作品がとにかくよくできた小説なので、そことどうしても比較することになるので余計に粗が目立つというか(本作も結局、小説で描かれていたもののその一部を引き出して誇張はしつつもうまく扱えないままどうにもならなくなっているばかりである)。
あと、もっと素直に美術的で格好のいいカットをいくらでも撮れそうなところがあったのに、それらをいちいち微妙に外したものにもなっていた。無難というか、ちょいダサとさえ言える絵作りにしかなっていない。カットも思わせぶりな見た目になっているだけである。こういうところもいちいち残念な作品だった。少なくとも映像美は堪能できるのではと期待していたのだけれども。この点にしても恐らくは1979年版を大人しく観るべきなのだろうけれども、観る術が限られている作品なので、繰り返すように未だに観れていない(恐らく内容にしてもあの時代の西ドイツの作品なのだから、あちらは同時代性を持たせつつ重厚な作品になっているはずである。本作でも今ここの立脚点から作ることはできたはずなのだが……いや、まあ、やってるのかもだが……)。
ちなみに「ノスフェラトゥ」とはストーカーの小説に既に出ている言葉である。小説においては以下のように触れられている。
Before we do anything, let me tell you this; it is out of the lore and experience of the ancients and of all those who have studied the powers of the Un-Dead. When they become such, there comes with the change the curse of immortality; they cannot die, but must go on age after age adding new victims and multiplying the evils of the world; for all that die from the preying of the Un-Dead becomes themselves Un-Dead, and prey on their kind. And so the circle goes on ever widening, like as the ripples from a stone thrown in the water. Friend Arthur, if you had met that kiss which you know of before poor Lucy die; or again, last night when you open your arms to her, you would in time, when you had died, have become nosferatu, as they call it in Eastern Europe, and would all time make more of those Un-Deads that so have fill us with horror. (第16章、精神病院院長セワード博士の日記内で引用されているヘルシングの台詞より一部抜粋。博士が求婚していたルーシー(※ヒロインであるミナの友人でもある)がドラキュラの毒牙に掛かって化け物となり、彼女までもが退治対象となってしまったのを目の当たりにしている箇所)
吸血鬼とは古代の伝承にも伝わるアンデッド(=不死者)であり、このアンデッドの餌食となって死ねばその者もアンデッドになってまた人間を襲っていく。こうして被害と怪物化が広がっていく。東欧の人々が「ノスフェラトゥ」と呼ぶものになって、アンデッドを作っていく恐怖をもたらすのだ……みたいなことが書かれている。「nosferatu」の言葉自体は至極さらりと書かれているだけで、むしろ全体的に「Un-Dead」という言葉のほうを強調して紹介しているものとなっている。
nosferatuはルーマニア語の古語で「吸血鬼」を指す語とされるものの語源ははっきりとしておらず、「不快な者、我慢のできない者」を意味しているもと言われたり、「病気を運ぶ」であるとも、他にもいろいろ言われたりはしている。
上記の引用部分からも垣間見えるように、ここでノスフェラトゥないしはアンデッドはむしろゾンビを連想するような特徴を有したものとして描写されていて、このゾンビ(のようなもの)との繋がりは実は「吸血鬼」というものを学術的に研究した際にも欠かせない特徴となっている基本的な要素でもあったりする(ついでに言えば狼男だとかにも波及していくものがあったりもする。この辺はこれ以上は端的に説明しようがないので、興味があれば調べてくれよな。ここでは仮にゾンビで喩えたけれども、アンデッド=ゾンビに絞られるわけではないとかいろいろあるのじゃよ)。それはともかく、本作ではこういうゾンビ的なドラキュラ像をさらに強めた上で「病気を運ぶ者」として描いたものになってはいる。一応、基本的な前提部分なので長々とこうして触れてはおく。
物語最後は旧版同様、ヒロインの自己犠牲によってノスフェラトゥに朝日を浴びせてこれを退治するという展開になってもいるのだけれども、その女の自己犠牲による美化みたいなものにしても問題はもはや言うまでもないのだけれども、特に本作の場合、彼女の本性(ここにしても危なげな設定にしている)が死の病そのものでもある彼を呼び覚まして自らの元へ招いたという前提で展開していたりもして、男性の社会の中で抑圧されて病人扱いされた彼女がノスフェラトゥと繋がってしまっていよいよ本当にヒステリーとされるだろう病状を催して、さらに社会にこのゾンビ的な病原体を招き寄せて破滅をもたらすことになる……みたいなところは、もう、どう捉えればいいんだと思いながら観ていた。恐らくは残酷な社会がもたらす不幸それ自体が病原体となってその社会に死をもたらしたというふうに捉えられるのだろうけれども、いかんともいかんともである。つまりは、外からの「恐怖」という他者によるものを描きながら、同時に恐怖の根源を内側にいる自分たち自身にも求めるというか。ある意味、カミュの『ペスト』だとかのあの辺の伝染病を描いた文学にも親しいことを狙って入るのだろうとも思えはする。思えは、ね……。この外と内をきっぱり分けることなく曖昧化するにしてもうまく描いていないからただただ中途半端で曖昧にしかなっていなかったり。そのくせ、際どいものをかなり際どく取り扱いつつ作品の中に取り入れているのに、その上で行き着く先が異様に曖昧であるというか……。
そんなだからクライマックスのノスフェラトゥの消滅とヒロインの自己犠牲も、「死(おっさん)に若い肢体をむしゃぶらせて、彼には私に夢中になってもらって、そのまま朝を迎えさせて私諸共に自滅させてやる」以上の描写が汲み取りにくいというか、意味深長ではあるのは分かるんだけれども。むしろ、おじさんに喰われる女という性的な暴力性に収束し過ぎているし、それが表面的に過ぎるものにもなっているというか。恐らく、そうやって望む望まぬにかかわらず「病」を媒介にして繋がって貪り合っていた(というか一方的に貪られていた)二人がいよいよ現実に合一を果たすことでどうのみたいなところもあるはずだろうに、だからどうというのが少なくとも私にはつかめないし、そこが全体を俯瞰したときにどう繋がってくるのかもやはり私にはうまく感想がまとまらないものになっていたというか。とかく、「何だってのよ」が勝る。
作中、「providence」を随所でキーワードとして用いながら諸々の展開をやるのにしても、何がですかって思ってしまうところがあった。少なくともやはりストーカーの小説においては、ドラキュラの悪なる行為も結局はその身を滅ぼすように働くことになるのではないか、それが神の摂理(=providence)なのではないかというニュアンスで出てきたりもしているのだけれども、本作に関してはこのprovidenceがどこにどう掛かっているのかがやはり曖昧に見えるところが強い(掛かっている場所によってはかなり最悪なものにも見えかねないのだけど、その可能性も否定できないという)。
恐らく、少なくともこの本作の『ノスフェラトゥ』では「女」というものを核に据えつつ、その抑圧された性をどうのこうのしたいんだろうなあとは思うのだけれども、この辺にしてもすんごい「何なのよ」のまま展開していくので、捉えどころがない。
本作において、男は「男らしく」何かをしようとしたがって(あるいは自分がしなければならないという呪縛の下で)統率力なり権力を振るおうとしたりはするものの、結局は徹底して無能なものとして描写されていたと思う。ヒロインがひたすら「ヒステリックな女」として作品世界の中でもキャラクター化されていたように、ここも極端なまでに分かりやすく描かれている。現状を打破するための策として与えられていたものに注意が及ばずそれについて考えもしなかったり、或いは明確に拒絶して自分が信じるやり方に固執したりして結局破滅をもたらしたりもする。ヒロインの夫が異国の幻想的な幻の中に現れた雄馬のイメージにも仮託されたように、彼は生贄となる乙女を化け物の下へと運ぶ役割を負っていただけだというふうに言えるようにもなってもいるし、ドラキュラを「運ぶ」船員たちもやはり男たちで構成されているし、そもそも裏でいろいろ事を「運び」つつも最後は精神病院に囚われていた今作のレンフィールドの立ち位置のキャラクターにしてもやはり男であるし、少女であった頃のヒロインに父親としての威厳の下で呪縛を課したのは父親という男であるというように、暗に、破滅をもたらす伝染病の媒介者として大活躍するのは徹底して「男たち」であるのだというものになっているし、恐らく、強いていうならばこここそが本作の肝なのかなあとも思うものになっている。
これでもかと異常な存在としてヒステリーを起こしているヒロインをそのようにさせてしまっている、そのように抑圧したり無碍に扱っているのは誰であるか、彼女が存在する社会を自分が力があるのだとして形作っているのは誰であるのかという。本作においてはヒロインとその友人女性が一度仲違いをしても友情を回復する描写はあれども、ヒロインを責めた男性が彼女を責めることの誤りを諭されてもだからといって彼女に謝る描写はないというのにしても(お情けで助けてやっているというような認識がまろび出ていたり、つまりは彼女を下に見ているわけである)、そういう遠回りな方法で、結構、本作における男の害悪さというかどうしようもなさみたいな描写は差し挟まれていたとも思う。
しかも事が窮まれども結局はその我が物顔で支配する立ち位置に居る男たちが結局は何も果たせず、自分たちが追い詰めた「女」のちぐはぐな自己犠牲に頼るしかない展開になっている皮肉というか。
だから、本作で描かれる病の中心人物なのはヒロインではあっても、実際はヒロインという存在を超えたところにさらなる原因があって、本当の主体はどこにあるのかが描かれていたのだろうというか。先に、ノスフェラトゥというおじさんが少女を性的に襲っているような終盤だというような表現をしたけれども、ノスフェラトゥがそういうふうに見える「男」であること、なんであれば明らかな異形としてその怪物性を剥き出しにした「男」であり、病の根源・死を齎す者の根源として描かれたのがそういった「男」であることは、本作を理解する上でかなり重要なものになっているのではないか。これは何よりも「男」というものの仮面を剥いでその暴力性を剥き出しにさせている作品なのではないか。──とは、まあ、一応思うわけだけれども、繰り返すように、如何せん、中途半端なのである。一応そういうふうには受け取れるよなというふうに私なりに理解は進められるのだけれども。
ヒロインに、こういうふうに精神的に抑圧された結果、ヒステリーや鬱のような様子を見せるようになる、ひいては悪魔憑き(というかノスフェラトゥ憑き)なのであるといった設定を乗せるにしても、こういうふうにやっていくのなら、ああいうふうにヒロインをグロテスクに描くにしてももう少し導線のやりようがあったのではないかとも思う。本作、ヒステリーにしてもそうだけれども、ややもすると描写されている時代そのままの「所詮女は」という差別的な眼差しの異常さを異常なものとして描いているのかが至極曖昧なまま流れていくところがあったと思う(ひいては「男らしさ」の呪い、男性は女よりも賢いものであるという偏見にしてもそうである)。もう少し描写を重ねるべきところもあったのではないか。
とにかく、中途半端過ぎて結局何がしたいのかというか、ややもすると二次加害的な受け取り方も容易にできるまま放置されてしまっている作品であったというか。そういう誤読が可能な余地をわざと残しつつやっているのだろうかとも思うような作品だった。あんまりゴリゴリと女性差別の問題を描くことは止めたのかなあとも思うけれども。
で、もっと言えば、伝染病とノスフェラトゥという観点で描くにせよ、社会という空気感の伝染とノスフェラトゥという観点で描くにせよ、この2024年に製作した作品がその時代の目からどう描くつもりで作ったのかが一番よく分からない(のに妙にテーマは意味深ではある)というのがどうかしているというか何というか。
原作関係:
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