【映画】書かれた顔【☆2】

タイトル
書かれた顔
原題
Das geschriebene Gesicht/The Written Face
制作年
1995
制作国
スイス、日本
監督
ダニエル・シュミット
脚本
---
原作
なし

データベース
Filmarks | allcinema | IMDb

補足

  • 本レビューの下書き用雑記メモは『Filmarks』に記録している。(該当ページ
    本文は上記のメモをきちんとした形に書き直したものになる。とりたてて整えるところがなければほぼそのままのものをこちらにも書いている。
  • 作品の商品画像部分および楽天ブックスへのリンクのみアフィリエイトリンクになっています。どちらも楽天ブックスのアフィリエイトです。
  • 視聴日:2026/07/13
  • 評価:☆2

 


www.youtube.com

 

きっかけ

 Amazonビデオにて視聴。
『国宝』を観た流れで、ほんならほんまもんの歌舞伎の女形のドキュメンタリーを観てみましょうと思ったので観た。こんな経緯で観ているので、『国宝』への言及もかなり多いレビューとなってしまった。

to-the-kind-reader.hatenablog.jp

感想

未知の映画作家が次々と日本へ紹介され、ミニシアター・ブームが巻き起こった1980年代。蓮實重彦ら日本の映画人によって“発見”されたダニエル・シュミットは、退廃的な映像美で世界中に熱狂的なファンを生んだ。子供のような心を持ち、芸術への造詣が深くオペラ演出家としても知られたシュミットと、日本の文化人・映画人との深い親交から生まれた『書かれた顔』。
出演は、当代きっての歌舞伎役者で誰もが知る女形のスター坂東玉三郎、女優の杉村春子、日本舞踊家の武原はん、舞踏家の大野一雄、日本最高齢の芸者・蔦清小松朝じ。世紀末日本の黄昏に消えゆくレジェンドたちが見せた一瞬の煌めきが、映し出されていく。
(WEB『書かれた顔 4Kレストア版』の作品概要より一部引用、https://kakaretakao.com/

 

 というわけで、五代目坂東玉三郎を通して「歌舞伎の女形」を映そうとしている作品である。ちなみにダニエル・シュミットはスイス人。プロの女形のそうして作られている「芸」のすごさみたいなのは本作を観ても伝わってくるし、なんであれば舞踏家さんや三弦弾いておられた方みたいなものすごい高齢女性の各々の持つ芸の凄みも伺い知れる大変お得な作品にもなっていた。
 ドキュメンタリー的な眼差しで以てこのテーマを映しているというよりは、半ドキュメンタリー、半フィクションというか、少なくとも正面からドキュメンタリーの切り口で撮られているものではない。後半にがっつり劇中劇が挟まれてるからそうであるということを除いてもフィクション的な眼差しで題材を切り抜いている印象が強い内容のものとなっている。だから、本作を通して撮られている主体が「撮られている」ことを意識した上で発し、そうして撮影されたものから「意図せず滲み出してしまったもの」を含めて撮影する側が何らかの目的でもってドキュメントすることで何かを描くというものには全くもってなっていない。徹頭徹尾、受け手がどう取るかという余地はあるにしても、「意図して作り出したもの」で構成されているものだと言える。つまりは映画作品などのほうにむしろ近しいものとなっている。そしてまたそういう作為盛り盛りで作り上げているところが「歌舞伎(ないしはその女形)というもの」を表現するのにこの上なく向いた形にもなっている。
素直にドキュメンタリーの形式で撮影していては、あの徹底して表層的なところでのみ作り上げているものを取り上げることは逆に難しいというややこしさを踏まえた上で恐らく計算ずくで作り上げているだろうことは観ていて伝わって来たので、シュミット氏の目と表現力はすごいなと思いながら観ていた。よっしゃこの構成で撮るでと決めた慧眼たるや。この辺はそもそもの歌舞伎という古典芸能を踏まえた上で本作を観ていると明文化されないところでニュアンスがよく分かるところにもなっている(もっとうまく言葉にしてこの辺が説明できる人も居るのだろうが)。

 で、本作のことは置いておいても、映画『国宝』って、任侠ものの文脈に則っていたり、中途半端に『ジョーカー』的なことをやっているところがあったりしたのは分かっていたものの、さらに本作のパロディーをひたすらやってただけなのではないかという感想も持つことになってしまった。というか、ジョーカーというよりは本作の作中で取り上げられていた大野一雄によるダンスのほうがより意識されていたのではないかというか、場面設定も含めてもはや模倣そのものであるというか(ちなみに、このダンス以外の全体において影響が見て取れる。パクリだと糾弾したいわけではない)。なんだか、思ってもみなかったところであの作品のくだらなさがさらに補強されてしまったところで、改めてあの作品にがっかりしてしまっていた。そもそも女形とはという前提的な問い立てにもろくに応えられていない作品だったわけで、そのくせこういうパロディーはしているところには怒りすら沸いてきたと言える。
 本作において大野氏は白塗りの女装でモダンな創作ダンスを奇妙に思わせぶりに踊り続けているのだけれども、その歪に誇張された女性用を思わせる帽子が薄暗い夜景の中で人体と奇妙に溶け合ってまるで一個の化け物がそこに居て踊っているかのように見える瞬間があったり、こういうところでも歪ながらに美を演じている歌舞伎の女形というものを表してみせていたりだとかも表現としてだいぶいい。その大野氏のダンスがやがて後半の劇中劇のあの「男が演じている女(のイメージ)」をこれでもかと誇張せしめた現代が舞台の芸者の寸劇と交差する瞬間があるのなんかにしても、グロテスクなくらいに尖っている。(で、『国宝』はそうして為されていた表現を大変粗雑に下敷きにしたような描写にしかなっていなかったのだけれどもとやはり棘を含みたくもなるのだけれども。)

 ちなみに私は歌舞伎が好きではない。歌舞伎を見れば、浮世絵的見栄えの劇であるなあと思うばかりだし、女形を見れば、女らしさを演じている男というふうに見ている。で、そういううわべのところでのみ完結して完成している(もちろんそのうわべを築くために芸が徹底して磨かれているのだけれども)世界に私が好感を持てないだけで、むしろそこに魅力を感じるのならば歌舞伎が好きになるのだと思う。本作はそういったところが遺憾なく表現された上で作品化されているものともなっている。もちろん、恐らく、監督含め関係者一同、私の思うほどトゲトゲとした考えで作っているわけではないだろうが。
 作中にしても、玉三郎が「結局、女の目でものなんて見れないから、男の目を通した上で女らしさを追求して演じることになる」というようなことを、もはや本人の言葉なのかフィクションなのか曖昧なままに語る場面があるけれども、ここなんかは歌舞伎の女形というものがよく表現されている場面でもある。いくらいろんな女性に取材したりして研究してみたところで、そうやって研究した結果を演技に反映させるしかない。昔は自分は女になってるつもりだったけれども、でも実際は結局全然女の目で物事なんか見れていなかった。ここなんだよなあ。もちろん、性自認がどうでそれによって起こる問題がどうというのとは別の話であるということは一応触れておくけれども。
結局のところ「男」という性に固着してしまっていること、その肉体の故に取り巻かれる環境によって生まれる差異があったことへの自覚、その結果、「女」という性を能動的に固着することになっていること。本来、それなりのグレーゾーンもある「性」というものをあえて二つにパキっと割って解釈行為を進めなければいけないところに歌舞伎の特殊性があるのである。なんであれば、そういうグレーゾーンをご都合的にパキっと割っている社会に加担する芸能だとも言える。もっと言えば、そこにだいぶジレンマが生じようものもあるはずなのだけれども、少なくとも玉三郎を始め、作中で話者として登場する女優などの女性陣にはその辺の葛藤を込めていることはないところからして既にこの「歌舞伎」を通して社会の在り方をあぶりだすように創り上げているところがこの作品にはあったりもするのではないかとも思うところでもある。性の呪縛を強調することなしに成り立ち得ないのが歌舞伎なのではないだろうか(ひいては、宝塚歌劇団にも似たようなことは言えるはずである。ので、私はやはり宝塚歌劇団も好きではないのだが)。
 繰り返すように、作中では昔の映画女優だとか女性日本舞踏家だとかも登場するのだけれども、そこで形作られている「らしさ」をさらに模倣した上で作られるのが女形の「女らしさ」なのであるというか(そしてやはり『国宝』に戻れば、そうやって出来上がった女形をさらに模倣して「女形っぽいもの」を一個の作品として説得力を持たせないまま出してしまっているだけというところにある意味で見応えを作ってしまってもいたのですが。役者が悪いという話ではなくて、作品が悪いという話である。ネチネチ)。劇中劇なんかはそもそもが「女らしさ」で以て客に接待することになる芸者を主役にして玉三郎がその芸者を演じるというまた結構な構造もやはり繰り返すように展開しているのだけれども、ここなんかは、ここで玉三郎が「女という記号」をいかに纏って演じているのかをかなり露骨に分かりやすい形で示しているターンにもなっている。作中では女優が、「歌舞伎の女形を女が演じてもああはならない」とも言っているけれども、そりゃそうなのである。女は女という記号を纏うという段階を女形ほどは経なくてもいいのだし、逆に、女形となって表れるもの「らしさ」までは纏えないからこそ何かが違うものになってしまう。そこには先述したような肉体的な呪縛も伴う。
しかも「歌舞伎の女形」はさらに芸子や古典舞踊家、古典の(男が描いた)女の経脈でしか女形にはなり得ないという特徴もあるだろうと私は思っているところで、そこから逸脱したものを女形に「女」として演じさせるのはかなり無理があるとも思っている。例えば現代の女性を女形に「歌舞伎の女形として」演じてもらおうとなるといろいろ無理そうなことは想像に難くないはずである。歌舞伎の女形としてという制約を外せば何らかの形ではできるかもしれないが、それだともう歌舞伎ではないし女形でもない。そういう狭い範囲の中でかろうじてバランスを取って成立しているのが歌舞伎の女形なんだよなあと、本作を観ていて改めてそう思いもした。ので、2.5次元ミュージカルの延長的なタイアップをしたりして本来の芸を極めることから外れているここ近年の歌舞伎の動向って、そういうところから見ても軽佻浮薄としか言いようがないのである。マジでしっかりしてほしい。

 補足しておくと、『国宝』のレビュー時にも述べたように、『国宝』で主人公たちを一般の役者が演じたことそれ自体を批判しているのではない。模倣物であることを(中途半端に)認めた上で一個の作品として製作しているのだからなおさらそこに何か言うことなんかありはしない。むしろその辺で批判することがあるのは、本物の歌舞伎の女形には見えないもの、けして歌舞伎そのものを映してるわけではないもの、あくまでフィクションのお話として描いている作品を観ておきながら、それが本物であるかのように有難がるようなレビューをしているような、もう少しその目と感性をどうにかしておいでなさいという受け手の側のほうである。中身なんてどうでもええんですわみたいな現代社会的なものがあの奇妙な内容の絶賛からは伺えるとさえ思っている。
そもそも芸の世界に中身なんていらんと私は思っているのですが(せやから歌舞伎の掛け声みたいなのなんか私からするとアホくさくてしゃあない)、そこに求めている中身のなさは決して現代の上っ面賛美とは違うものなのである。「役者そのもの」が前に出過ぎてはいけないということなのである。だから、「役者そのもの」をこれでもかと出して演じることを過大評価する世界として描いていた『国宝』はそういう意味でも少なくとも私の「芸」認識とは大きく離れたものにもなっていた。歌舞伎は確かに上っ面の芸だとはさっきからずっと書いていることではあるけれども、あまりに上っ面讃美が過ぎる。皮肉だなあ。もっと言えば、現代のそういう評価軸の在り方って、恐ろしく劣っていて反知性主義にも等しいものではないかとも思っていたりもする。表面的に虚飾されているだけのところにある快を賛美することに徹していはしないか。