- タイトル
- テレビの中に入りたい
- 原題
- I Saw the TV Glow
- 制作年
- 2024
- 制作国
- アメリカ
- 監督
- ジェーン・シェーンブルン
- 脚本
- 同上
- 原作
- なし
補足
- 本レビューの下書き用雑記メモは『Filmarks』に記録している。(該当ページ)
本文は上記のメモをきちんとした形に書き直したものになる。とりたてて整えるところがなければほぼそのままのものをこちらにも書いている。 - 作品の商品画像部分および楽天ブックスへのリンクのみアフィリエイトリンクになっています。どちらも楽天ブックスのアフィリエイトです。
- 視聴日:2026/07/07
- 評価:☆1
きっかけ
Amazonビデオにて視聴。吹替版。
ほぼ同時期に架空の深夜番組を扱った『悪魔と夜ふかし』(2023年)が放映されていたのもあり、本作も「テレビ」が中心にあるらしいというので、何となくその繋がりが気になったため視聴。というか、『アステロイド・シティ』(2023年)もやはり「テレビ」が重要なものとして作中で機能していたので、そこに何らかの象徴性・枠構造性を求めて着目する傾向みたいなのが(近年で初めてされたというわけではなくて)殊に何やら注目される流れができている・できていたのかもしれない。ちなみに本作は2024年の作品。
感想
本作はエマ・ストーンとデイヴ・マッカリー夫婦が製作として関わっている作品である。その条件の作品だと前に『僕らの世界が交わるまで』(2022年)も観たことがあるのだけれども、そちらにしても妙に生々しい、見ていて痛々しい立ち居振る舞いみたいなものが描写されていたので、そういうものの製作に関わりたいのだろうかとちょっと思いながら観ていた。
原題は『I Saw the TV Glow』。つまり「私はテレビが光るのを見た」である。glowなのでネオンサインのように燃えるように輝いて光を放っているようなニュアンスで表現しているのだと思われる。他の言語版のタイトルの一覧を見てみても(※参考:WEB『IMDb』、https://www.imdb.com/title/tt15574270/releaseinfo/)恐らくほぼ全てが原題に準拠した訳になっている。邦題もそれで良かったのではないか……とは視聴後に思ったところはかなりある。「テレビの中に入りたい」でも、別にそこまで見当違いなことを言っているわけではないけれども、的を射ているものかというとズレたところはあるとも思うので。テレビ(番組)と救いを求める幼い心の自分が重なって囚われてしまったところは多分にあると思うけれども、やっぱり、「光るのを見た」だと思う。「入りたい」のほうが視聴者が興味を持つないしは共感を覚えやすいという判断なのだろうなあとも思うけれども。なろう系というか転生系がラノベ的なサブカルジャンルではやけにこすられ続けて跋扈しまくっている日本だものね。
あと、どうやら監督のジェーン・シェーンブルン曰く、「スクリーン三部作(Screen Trilogy)」の第二作に当たる作品だとのこと。一作目は『We're All Going to the World's Fair』(2021年)だけれどもこちらは日本では未放映且つ配信なども恐らくされていない状態。3作目は現時点では着想があるという以上の話は出ていない状態のようである。一作目は、孤独な少女がネットだか巷だかで流行っている「ひとりかくれんぼ」のようなものを行うホラーらしい。恐らく本作同様に幼少期に鬱屈を抱えて爆発する感じのものなのではないかと思われる。
あらすじをそれなりに詳しく書かないと何が何やらなので、以下、やや詳しく書いていく。観ていてすんごくキツいところがあるけれども、終盤に至る絶望そのものの描写は見応えがある。
1990年代後半、有色人種の孤独なティーンエイジャーの主人公は、ある日、自分が気になっていた深夜のドラマ番組に関する本を読んでいる同年代の少女と出会い、ぎくしゃくと言葉を交わしながらも交流するようになる。少年の家では就寝時間が厳しく規定されていたり、父親の支配が恐らく(少なくとも子供の目には)かなり強烈なものだったのもあり、その番組を彼が実際に観ることは適わないでいた。ある日、少女の家で一緒に番組を観て共に過ごし、その後も録画テープをもらって繰り返しその回を憑りつかれたように観る生活を送るようになる。数年後、少女は家出を決意したことを主人公に告げ、彼が一緒に付いて来てくれることを期待するも、主人公は飛び出す勇気が持てず、結果、彼女は一人で居なくなり、そのまま行方不明に。直後、その深夜番組も見計らったように打ち切りになるし、病に冒されていた母が死亡する。
それから青年にまでなった主人公は父親と二人暮らしで地元の映画館で働いている。そこに行方不明だった少女が突如現れて、自分はあの深夜番組の中に居たのだと主張する。促される形で最終回を観てみると、確かに、何やら現実と似た世界の中で主人公たちが生き埋めにされて急に終わりになっているのを確認してしまう。かつての少女は、あの主人公の二人は自分たちの「本当の姿」であって、あの番組の世界こそが現実なのだと主人公に語ると、「以前、人に頼んでそうやって転生したように」、主人公にも自分を生き埋めにしてまた転生させてほしいと懇願するが、主人公はやはりこの誘いも拒絶して再び逃げ出す。
さらに数年後、映画館は閉館してゲームセンターへ異動しており、父親も既に亡くなっている。ある日、ストリーミングサービスであの深夜番組を再視聴するものの、記憶にあるよりもその内容がいかにも幼くて陳腐なものであったことを目の当たりにして茫然としてしまう。それでも時は流れ、もはや中年(またはそれ以上の)ように見えるほど草臥れた様子の主人公。どうやら実家に住んだまま、社会が「普通」として求めているだろう家庭も持っているらしいことを口では言っている。喘息を発症させているらしく、時折、呼吸を求めて薬を投与している回数も多い。職場では子供の誕生日パーティーの賑やかし要員として招集されて仕事として延々いかにも楽しそうに「ハッピーバースデー」と歌わされ続けるが、突如発狂。場が死んだように沈黙して誰も反応しない中、主人公は喘ぎ続ける。トイレに閉じこもった彼は胸を切り裂き、中からテレビの輝きが洩れるのを目の当たりにした後、職場のゲームセンター内を彷徨いながら、誰に言うでもなくうわごとのように自分の非礼を詫び続けるのだった。
一応、何らかのマイノリティーが抱えて生きることになるこの世の息苦しさを寓話的に描いている作品になっているのだとは思うのだけれども、寓話的に描かれているからこそより広範に共感を抱きつつ観れる作品にはなっていたと思う。ちなみに、監督のインタビュー記事曰く、「監督のジェーン・シェーンブルンは本作の脚本について、自身がトランスジェンダーであると認識し、周囲にカミングアウトした直後、感情のジェットコースターの渦中で書き上げたと語った。そのうえで本作は、トランスジェンダーに限らず、あらゆる人の内面や社会の問題に対して語りかけるものである、とも。(WEB『CINRA』-「A24制作『テレビの中に入りたい』監督インタビュー。32歳で向き合ったトランスネスと葛藤を脚本に(2025/09/26)」、https://www.cinra.net/article/202509-isawthetvglow_imgwyk)」とのこと。
ひどく閉じた世界の中でやんわりと抑圧され続けて、支配されて、「普通に」前向きに明るく生きることができなくて、やりたいこともろくにできない。本作の主人公が、観たい深夜番組が観れないという障害があったように、興味があるコンテンツにどうしても触れられないもどかしさみたいなものは、特に一昔前以上の世代には覚えのある人も多いはずである。今にしてもあることは言うまでもないが。サブスクなどでいろんなものに触れるハードル自体は下がっていても、そもそもそのハードルだって越えるための環境が必要なわけで。というわけで、辛うじて触れられたその憧憬の対象への過剰な美化というか、幼いからこそ余計に輝いて見えていた歪みと、美しく見えるその世界への逃避感情。結局、時が過ぎて成長しても生きづらさは引き摺ったままでこの世を生き続けて、「普通」の皮をかぶって「普通」に生きてはいても、自分の世界は残酷で息苦しさに満ちていて、何も救われてなんかいない。だから病むしかない。そしてその鬱屈を誰もが見ないふりをするし、そもそも気付きもしない。どこか世界の隅っこで引っかかってぶら下がりながら、自己になり他者になり、何か破滅的なことをしない限りは、この重苦しい営みを続けていくしかない。絶望。
というわけで、そういうところはめちゃくちゃ私も「分かる」ものではあったのだけれども、それをとにかく特にティーン受けする感じに描いていた作品だったなあという鑑賞後の感覚であった。成長と共に露骨なものになっていく世間に何か当然のものとしてある「普通」との折り合わなさにしても、すごく「分かる」のだけれども。学生時代は男女の別みたいなものに薄っすら抗い続けて女子みんなが当然のように赤い道具キットを使う中で青を選んだり(あの、男女別にわざわざしまわれるロッカーで浮く青よ)、「こんなのはオタクだ」と蔑まれていたはずのものが何となく自然と一般化していくうちに皆が堂々とそれに親しみ始めたことむしろそれそのものに対する違和感だとか、メインストリームはこういう生き方であるだとか、とかくいろいろある「こうあるべきだ」だとか「こういうのがいいことだ」的な圧力については枚挙に暇がない。そしてそれは今だってやたらとありまくるものである。そして、はみ出してしまったら、どこかで立て直せない限りはずっとつらさをつらさとして抱えたまま、無理矢理築かれている社会の営みの中に巻き込まれるようにして苦しいまま呑まれて生きていくしかない。そして「普通」はそういう過去の鬱屈からはどこかで折り合いをつけたりポジティブに転じさせて「成功」できているほうにこそ賞賛の目が行くことだとかの圧と、「そうじゃなくても責めてるわけではないよ」というやんわりとした残酷で無責任な優しさと見放し。
エモともまた違うのだけれども。ここにしても上記で触れたインタビュー記事で「この映画に出会ったことで、カミングアウトしたり、自身のトランス性(transness)を発見したりした人々から、おそらく何千というメッセージを受け取りました。「I Saw The TV Glow」という言葉が、自身のトランス性や性別移行について若者が語るためのTikTokのトレンドになったんです。まったく意図していなかった事態でしたが、それを知ってとても感動しました。これは、完全に理解していない部分も含めて、正直な言葉で自分自身を語った結果だと思うんです。芸術とは謎を追求することであり、人々に物事を説明するためのものではない。だから、この映画で目指したのは、「私が10代の頃に存在していたら、自分やあらゆることを理解するうえで絶対に役に立ったであろう作品」をつくることでした。」とある。だから、ティーン向けだなあと観ていて感じるのも当然な造りになっているのだけれども。ただ、ティーン真っ盛りの頃の私が本作を観てどこまで刺さったのかとなるとそこは分からないが。特に終盤の絶望そのものの将来なんかは今だからこそまともに刺さって観れていた気がする。仕事という同調圧力の中で知りもしない子供の誕生日を祝わされて、キラキラした「マトモ」なパーティーに放り込まれて、引き裂かれたように叫んでも、誰もが沈黙する。その叫びにむしろ同調するように、仕方がないものであることを既に了解して、既に絶望を抱えているかのように。或いは、目の前のものを無視していればそのうち「普通」に戻ることを信じているかのように。あそこは作品屈指の場面になっていたと思う。
だから、作中で主人公がストリーミングサービスというあまりに容易に対象を消費することができるものを通して深夜番組を観てみたときに、貴重な一話一話が主人公の目というフィルターを通して歪んで都合よく見えていたマスクを剥がれて、ありのままの陳腐さを直視するしかなくなって、そのときに彼がただただ「いたたまれない」気持ちになるしかなくなる場面も「分かる」となりつつ、そもそも本作それ自体がそれそのものとして描写されてもいたよなと思うというか。本作を観ていて、特にその後半半ばくらいまではずっと「いたたまれない」気分になりながら観るものとなっていたはずなので。そして主人公自身にしても、かつての自分のいたたまれなさ、痛々しさを自覚する場面にもなっていたはずでもある。同時に、もはやそれが逃げ場として機能してくれなくなっていることへの戸惑いも。
過去において、どうしようもないままにそれに陶酔していた過去の自分を含めてどうしようもない気持ちになっているのに、自分は今もここにいて、苦しくて発狂している救いのなさ。逃げ場所が逃げ場所としてもはや輝きを持たなくなるって、ものすごい暗澹としたものをよくもまあこう表現したものだなあと思う。そもそもその逃げ場所が歪みまくって認知されていたのだから、いつかは解けてしまう不安定なものでしかなかったのだけれども。でも、それがいつか解けてしまってもやっていけるくらいに生き直せなかったところに一番の救いのなさがあるというか。幼少期に輝いて見えたもの、何かすごいもの、親だとかの絶対的に抗えない支配者として映し出されていた魔法が解けること自体は生きていればいつかはやってくるけれども、そこから解放されたときに自分がただ迷子であることをありありと自覚するしかない不安定感。既に生き埋めにされている息苦しさに懊悩しながら生き続けているのに、いっそ死んでしまえない、死んでどこかへ行くこともできないつらさ。そして、今の生き方からもこの世からも遁走を思い切って選択できない弱さ(そして仮に現在いる場所から遁走しただけでは、かつての少女のように、その後ろ向きの勇気が報われるわけでもなくて、結局、人生の倦みに呑み込まれる)。
描かれていることそれ自体は大変に好みなのだけれども、いかんせんすんごく痒くなってくる具合が絶妙だったので、何とも言えない作品になっている。