- タイトル
- エディントンへようこそ
- 原題
- Eddington
- 制作年
- 2025
- 制作国
- アメリカ
- 監督
- アリ・アスター
- 脚本
- 同上
- 原作
- なし
補足
- 本レビューの下書き用雑記メモは『Filmarks』に記録している。(該当ページ)
本文は上記のメモをきちんとした形に書き直したものになる。とりたてて整えるところがなければほぼそのままのものをこちらにも書いている。 - 作品の商品画像部分および楽天ブックスへのリンクのみアフィリエイトリンクになっています。どちらも楽天ブックスのアフィリエイトです。
- 視聴日:2026/07/06
- 評価:☆3
きっかけ
Amazonビデオにて視聴。字幕版。
製作当時だったか、日本で放映するかどうかもまだはっきりとしていない時分から楽しみにしていた覚えがある作品である。今のところ、アリ・アスター監督作品は心をめしょめしょにされながらも楽しめているため。この監督が現代西部劇をまさに現代的な出来事を題材としながら描いていくって、絶対めちゃくちゃ暗くなるぞ!とわくわくしていた。わくわくに除草剤代わりの塩水が与えられるくらいめしょめしょにされたけど、面白かったです。
感想
『ボーはおそれている』(2023年)同様、アリ・アスター監督とホアキン・フェニックス主演というタッグが組まれている作品。あちらが主人公ボーという個人のどん詰まりの窮状を徹底的にその底まで掘っていく作品であるのに対し、こちらは一つの国、一つの社会の有り様を主人公の卑近な人生と重複させながら掘り進めていくものとなっている。ノワールな感じがとにかく強い現代の西部劇(いわゆる「ネオウェスタン」)の一種である。原題は単に『Eddington』である。とにかくあらゆる要素がてんこもりな作品。合間合間に現実のアメリカの現在の異様さが特にトランプに関する記事を要所要所で一瞬だけ写り込むようにしながら物語のストレス負荷も加速度的に上がっていく。
あと、『ミッドソマー』でいよいよ得た大衆的過ぎる表面的なところでキャッキャされる人気の在り方に対し、本作でさらに篩を掛けるものになっていたようにも思う。
COVID-19によるパンデミック下にあるアメリカはニューメキシコ州の架空の町エディントン(Eddington)を舞台にした作品。片田舎の町らしく、低い建物が地面に張り付くように延びている鄙びた場所で、自然の植物も藪のような低いものばかりなので開けた場所も多い。ここでは別に都市のようにパンデミックと言えるほどコロナが蔓延している様子もなく、むしろそんなものは無いようにも見える(あるいはそう見えるように追いやられている)ほどである。他にも、町の雇用や資金調達のためにデータセンターの誘致が計画されていたり、それとも絡んで市長選が展開されていたりもする。主人公はこの町唯一の保安官として二人の補佐役を擁して働いているものの、自身の喘息を理由にマスクを付けることを忌避し、理由に関係なくマスクを付けたがらない人の味方をしている。家には妻と彼女の母が居るものの、家庭は全く円満ではない。町はといえば、若者を中心にBLM(=ブラック・ライヴズ・マター)運動が活発で、別にこの町では何か問題が発生しているわけではないものの、日夜、怒声が飛び交うデモが開催されている。そうこうしているうちに妻の母親経由で主人公の家の中には陰謀論が忍び込むようになり、陰謀論者まで直接顔を出しに来たりもする。ある日、たまたま誰かにとってのヒーローめいたものになれた勢いに乗じて彼は市長選に立候補することにするも、そのことがさらに家庭内に不和を招く原因にもなったりもして、どんどん主人公のストレス値は上がっていく。そうしてある日、町の中でたびたび見かけていたホームレスがバーに不法侵入して飲んだくれていたのを目の当たりにしたときに彼の箍がいよいよ外れて彼を意味もなく殺害したときから、急転直下、いよいよ彼の暴力性が解放され、その彼が呼び水となって呼応されたようになって周囲の暴力性も解放され、どんどん誰にも止めようもない混沌が取り繕って被せていた仮面を剥ぎ取って現れることになるのだった。
……みたいな作品なのだけれども、前半からしてとにかく並行して様々な問題性を有した題材が怒涛の如く押し寄せて展開していくものになっている。後半では急転直下、主人公の暴力性がいよいよ爆発したところからそれらがやはり並行して展開しつつも既に垣間見せ続けてはいたこの「暴力性」というものの下で仲良く破滅に向かって邁進していくまとまり方を見せるものとなっている。まずはこの町や主人公の自己紹介(もとい現在のアメリカの自己紹介)をしてから、いきなり舵を切っていよいよ本題とばかりにアリ・アスター監督らしさが遺憾なく発揮されていく感じ。アリ・アスター監督作品は群像劇を描くよりも個人を根暗に描いていくことのほうが得意なのだろうという印象を持っているので、前半はそこのところが散漫としている感じがしていたものの、後半からそういったところも主人公一人にギューンと絞り込んでいて、観ながら、「きたぜきたぜ」と思っていた。題材がだいぶ直截さの度合いが強いので、いつもはだいぶ象徴的というか抽象的なところで物語を調理しているのでそこもどうなるのかなと思っていたものの、そこにしてもしっかり自分の方に向かせて自分の作品に落とし込んでいる。
実際にいつの間にか(というか、恐らくは直接的な暴力性の目覚めと共に)コロナに罹患して身体的にも味覚的にも異常を起こしつつもそれを直視せずに泥沼化する渦中で動き回り続けて、実際の病と精神的熱狂がどっちつかずに発露していって、もともとは蔓延していなかったはずの町に病が広がっていく。
冒頭に浮浪者ロッジが町の外側から山羊が鳴くような独特な喋り方をしながら怒鳴るように妙に意味深な言葉を吐きつつ侵入してきて、しかも彼は何やらコロナに罹患しているような様子さえ見せている。彼は恐らくはペストにおけるネズミのイメージ、脅威そのものである(※もちろん、ペストは別にネズミが悪いという単純なものではないのだけれども、あくまでイメージとして)。誰からも忌避され、汚らしく、何かを汚染するように見られてしまう存在、そうでありながら軽んじられ、重要視されることもない。だから彼は敷地内に侵入すれば迷惑顔で適当に追い払われるばかりで、脅威を根絶するために誰も彼に救いの手までは伸ばさないし、作中でも市長候補とその息子の殺人事件は大きな話題にはなっても、脅威そのものの象徴であるこの浮浪者が殺された殺人事件に対しては最後まで無視され続けている。誰かの癇癪的な怒りの矛先がまず予見的に向けられた、無視してもいい(ものとされた)弱者に注目しないこと、ネズミを無視していること。問題の根源に目を向けない有り様がこういうところにも表現されているのだろうなあと思いながら観ていた。
というか、恐らく本作はアリ・アスターなりのカミュの『ペスト』と同列の作品になっているのではないかとも思う。流行している病を通して社会の在り方を皮肉的に描く。ラストは新たな浮浪者が町に現れることよりも、問題なくこの町で生きることができていたはずの(だから彼も何となく日和見的になっていたところもあるのだけれども)黒人が静かに怒りに燃えながら射撃の練習をしているというところに落としたところも、どうしようもなさが伝染病のように延び続けた結果というものをさらに一味加えて描いていたなあと思った。脅威はいつかまた繰り返すという落とし方じゃなくて、地獄が次の地獄へと延焼していく感じ。歴史は繰り返すというよりも、そこにさらに人間の愚かしさの救いようのなさを加味しまくっている感じ。
主人公にしても、自分がマスクをしない理由として自分の病気を理由にするのはともかく、だから誰だってマスクをしたがらない人は擁護するというような正義「感」を見せていたりしていたところにしても、そもそもなぜマスクをしたほうがいいのかというのを考えることをやめた加害性(そしてもちろんマスクの強要も加害性ではあるのだろうけれども)を有していたり、この、彼が病を抱えていることだとか、妻も精神的に病を抱えていたりだとか、コロナ抜きにしても既に病を抱えているという設定になっているところも本作の面白いところだった。彼個人ないしは彼の過程の中に既に病の停滞があって、二人の間に転がり込んで寄生する母親がさらに外から陰謀論ももたらしてくる。そうしてやがて妻のほうがそれにのめり込んだ状態で外へと出て行く。彼らの家の場合は根本的な病の原因として表されているのはこの母親で、彼女はかつて夫が娘に性的加害行動をしていたことを未だに認めようとせず、それでいてこの家を支配し、事を悪化させる病巣として存在し続けている。しかも最後まで彼のもとに残るのはこの義母のほうで、最終的には全身が付随状態で自らはおよそ何もできなくなった状態ながらに市長となってはいる彼をあからさまに傀儡にしてまだまだ支配を続けて野放しになっている。ここにしても根本的な原因が正されることはないし、むしろその象徴がこの町という箱自体を暗に支配するほどにもなっているという。
でなくても、最初は精神的に疲弊の兆しは見せつつもまだ町の保安官として真っ当では居られたはずの主人公が町の中の喧噪に揉まれているうちにどんどんぐずぐずに悪化していって、怒りが育まれていって、罪を犯し、これを隠蔽しようとし、嘘に嘘を重ねて人々の断絶状態を煽ってANTIFAや黒人に罪をなすりつけ、その結果、BLM運動などに反感を持っている危険な集団を「外から」招き寄せることになって、町を、自分たちを武力の暴力に晒して肉片が吹き飛ぶ事態にもさせる。その彼の問題の行き着く先が妻の逐電(しかも自分は叶わなかった妻とのセックスを恐らく陰謀論者が果たして妊娠に至っている)であり、社会のさらなる泥沼状態であり、なんであれば自分自身を不随にさせてしまうことでもある。
さらに言い換えれば、主人公は最初から既に喘息という病を通じて息苦しさがあって(これも彼の人生においていつから発症しているものなのかは不明だが)、そこに喘息と違って自分では認めようとしないままコロナ罹患の息苦しさも重なっていく。世界に対する息苦しさが象徴的にテンションを上げていった先で彼は文字通りもはや身動きも取れなくなる存在に成り果てる。アメリカの現在を皮肉的に捉えつつ、何であればその来たるべき将来の不安も描いているのではないかというふうにも取れると思う。むちゃくちゃになった社会で人々が行く先の暗闇といった感じでもある。
なんというか、いくらでも語り口自体はあるのでうまくまとめられないけれども、どうしようもなくてしかも解決どころか改善の見込みがない有り様を、主人公を中心にして町規模にも個人規模にもあらゆるものから描いているところが巧みな作品だった。鬱屈した主人公がだいぶ留保すべき点がある中で讃えられて有頂天になって、自分は実のところは一切問題そのものを改善しようとは働き掛けていないのにもかかわらずこの町の救世主、つまりヒーローになることを夢見てしまう、そうしたらきっと(他の何よりも自分の人生が)良くなると思ってしまう歪み。
しかもそういうどうしようもなさはリベラルしぐさとしか形容できないものとでも言おうか、町の中に登場するリベラル(?)たちにも重なるところがあるというか。白人というだけで抱えることになる歴史的なものを原因とする後ろめたさが都会で発生したBLM運動で火を点けられて、正義「感」のままに興奮して怒声を発し続け、自らの側に明確に立たなければ敵であるかのように見咎める無茶苦茶さ。その怒りの根本がむしろ何よりも自分の居心地の悪さに端を発しているだろうところのどうしようもなさからは目を逸らし続けているからこそ何のためにもならなずにいたずらに分断状態をむしろ悪化させている皮肉。何かしているつもりで、すぐにでも物理的な暴力に発展することも可能なストレス負荷。
この辺の、現在やたらと見られる、声がやたらと大きくて政治的正しさをむしろ盾にしている人たちの描写の仕方がうまい作品でもある。そういった人たちの問題性なんかにしても本作は全体を通して丁寧に描いている。むしろ、描写を重ねるまでもなく異常性は明らかなものである暴力的行為も辞さない極右だとかの勢力だとかは扱いはしても端的に描写するに留めて、こういう人たちのほうをこそ丁寧に描いていたと思う。よほど監督も嫌気が差してるんだろうなあとも思いながら観ていた。政治的正しさとは言えるのであからさまに悪いと言えるわけではないんだけども、何というかね……のところの描写のうまさというか。だから、ここで描写されたような人たちそのものである人たちは本作を観てどう思ったんだろうというのも気になりはした(アメリカのそういった人たちだけじゃなくて、日本のそういった人たちにしろである)。作中だと特にBLM運動が渦中で採用されてるのではあるけれども、当時、私自身は社会的な動き方に一生モヤモヤしながら報道等を見ていたので、そのモヤモヤしたところを掬い上げていたので、異常だったよなあとしみじみともしていた。
本作では主人公の部下に黒人青年が居るのだけれども、BLM運動だとか町でのデモ活動を見てもどことなく戸惑ってぼんやりしていた彼が、まさにその運動を通じて「おまえも黒人なら関心があるだろう」と言わんばかりに巻き込まれていって結果的に非暴力的に差別を受ける様だとか。果ては、主人公に罪をなすりつけられて軽んじられ、その上、実際にヘイトによって選ばれ、暴力の渦中に投げ込まれてしまったり。この辺のどうしようもなさもじわっとネチっと描かれていた。
と、ここまでざっくりどうにか切り口となるところのその一部にしがみ付いて何とか感想を書き進めてきたけれども、本作を観ていて一番思ったのは、「お利口なコメントをもはや差し込ませまい」とする力技を見せてきているなということだった。本作はXXな作品であるというふうに端的に言葉にすることが不可能というか、そうしたことを拒絶しているというか。「アメリカ(だけの話でもないところがあるが)の現在はろくでもないです」を、虚というイメージで覆いつつも実を描いて、肉片と汚物もないまぜにしたものをまるでウィルスのようにこちらの顔面にまで撒き散らしてくるような感じというか、現在のどうしようもなさをできるだけ忠実にパッケージングして、既に罹患している視聴者たちに突き出しているというか。
分かりやすいのに分かりにくいみたいな不思議な作品だったし、いつものアリ・アスター監督作品といえばそれはそうなんだけど、なんというか挑発的というか、やっぱり、これを見てうまく言葉をまとめて言えることがありますかみたいなのをぶつけてくるものだったというか。繰り返すように、同時並行でめちゃくちゃいろんな題材を並べてそのいちいちを皮肉的に扱って展開させていくし、それら一つ一つがそうやって描かれることのその妥当性も観ていてすごく分かるしほんまやでとは思うんだけど、それすらもうまく言えない感じというか。
そういう、うまく言えなくて頭の中でモヤモヤする感じの作品を作るのがうまいよなあ。
繰り返しになるけれども、本作、町を通して国や社会(なんであれば世界)が問題に対してどう向き合っているかという問題点や今の有り様を描きつつも、それを「家」という規模にまで縮めたところでも同時にその問題を描いてみせているところが巧みだったし、その家の問題が家の外とも地続きなものでもあって、外から家の中にもやはり入ってくるものもあるというところのその最悪のインタラクティブ性を描いているところに見応えがあったというか、現実社会の嫌なところを作品を通して純度高めに味わうことになったというか。面白かったです。根本的な問題を別のところにスライドさせてそこに注力することで何よりも自分自身を慰めているどうしようもなさというか。なぜそうであるのか、なぜこうなっているのか、ならばどうしたほうがよいのだろうか。そこが無茶苦茶になってはおしまいであるというか。ゆっくり慎重に考えることをやめて、自分の快不快に左右されていることをおざなりにして感情のままに叫んで頭をぼんやりさせても溝はそりゃ深まるだけであるというか。