- タイトル
- カーテンコールの灯
- 原題
- Ghostlight
- 制作年
- 2024
- 制作国
- アメリカ
- 監督
- ケリー・オサリヴァン、アレックス・トンプソン
- 脚本
- ケリー・オサリヴァン
- 原作
- なし
補足
- 本レビューの下書き用雑記メモは『Filmarks』に記録している。(該当ページ)
本文は上記のメモをきちんとした形に書き直したものになる。とりたてて整えるところがなければほぼそのままのものをこちらにも書いている。 - 作品の商品画像部分および楽天ブックスへのリンクのみアフィリエイトリンクになっています。どちらも楽天ブックスのアフィリエイトです。
- 視聴日:2026/03/02(初視聴)
- 評価:☆1
きっかけ
100円レンタルにラインナップされていて、何か問題を抱えた一般人中年男性が『ロミオとジュリエット』を演じることになるみたいなあらすじに惹かれて視聴した。
後から調べたところ、放映当時に何かのきっかけで見たいものリストには投げていたようだ。
感想
原題は『Ghostlight』なので、いわゆる鬼火の意味と、安全のために夜間なども舞台に灯したままにしておく明かりの両方の意味がある。アマチュア演劇という形で演劇や他者との繋がりを通してセーフティーネットを得て危機状態がいよいよ窮まってしまうことから逃れられるという作品であることからも特に後者の意味合いが強いと思うが、作品全体で主人公家族の中に姿もないままあまりにも強く影響力を残し続けている死者である長男という存在も核としてあることからも、前者の意味合いもあるとは思う。
場所は、郊外の少し寂れたこじんまりとした街。そこで生活を送っている主人公一家は生活に大してゆとりはない一般的な家庭である。夫妻は肥満気味で共働き(※ただ、実際の演者の話をすると、主人公一家は現実でも家族であるらしいのであんまりタイプ的にカテゴライズできないのやら、やや現実とフィクションの垣根が曖昧なところがあったりはするのだけれども)。妻は恐らく事務職で、夫は町の道路整備などを行うブルーカラー。出費ごとに余裕はなく、学校生活で問題を起こして退学になってしまいそうな娘を前にしても、お金の面が真っ先に不安として現れてしまう。家庭は普段はそれなりに円満でそれぞれに交流は交わしているし互いに関わることに忌避感もなさそうではいるものの、三人で住まう家の中には絶えずぼんやりとした歪が生じていてピリピリとしたところがある。それというのも、この家の長男が1年前に自殺してしまったからだ。主人公である父親がこの家の中では一番この問題に直視しきれておらず、家庭内に広がる歪からもすぐに逃げ出してしまう癖があり、それがまた静かに家庭の破綻を近付けている。
一家は、長男の自殺の原因となった、長男の恋人だった娘の家族を訴訟しており、それもまた家族の中に負担となって影を落とし続けている。うまくいかない。水を張ったコップがちょっとしたことで水をこぼしてしまうように、主人公はそのうち仕事でもささいなことで通行人を相手に度が過ぎた逆上をしてしまい、休職することになってしまう。どん詰まり一歩手前であった彼ではあるものの、たまたま彼は町中にある建物の中で恐らく半ば不法占拠状態で活動しているコミュニティー演劇に参加することになるのだった。
明らかにもう手遅れになった家族の不和状態というのではなくて、ゆっくりと手遅れに近付いていく家族間のピリピリとした感じだとか、相手に対して交流することそれ自体は忌避していないのに誰も彼もがラインを探るように振舞う緊張感と拒絶感。劇的なものはないけれども当人たちにとってはあまりにも生々しい生きにくさ。三人がそれぞれに発するストレス状態に対する反抗的なものの発露の仕方だとか、決定的に何か問題行動に出るほどではないし互いに愛し合っているのにちょっとずつ傷口を広げていってしまう感じだとか、そういうどうしようもないじれったさ、地味さの表現が本作は面白かった。
全員がはっきりと口にはしないのに、物語半分を過ぎるまでにはこの家族の上に目下の一番の原因となって圧し掛かっているものが長男の死であることが伝わることだとか、『ロミオとジュリエット』の物語に対する主人公の忌避感や理解の出来なさからさらにその詳細も自然と埋まっていく感じだとか。
一家の破綻のその兆しが露呈することになったのはたまたま長男の死という大きな事件ではあったけれども、端々から見えるように、既にいろんなところでどこかでそこが爆発したかもしれないことなんていくらでもあったんだろうなあという表現も巧みだったと思う(そもそも長男の死それ自体が一つの爆発の結果である)。歪をじわじわと広げて、物事を直視せずにどこかに逸らしながら余計に事態を悪化させる規模を広げていく。それが今回は踏みとどまって、振り返って、この道だと駄目だというマークを取りあえずでも付けられた。そこもやはり静かな描写ではあったけれども、本作の観ていて好きだなあと思えた点だった。
恋人の方が遠方に引っ越すことになって、それを嫌がった二人がオーバードーズで自殺騒ぎを起こして、結果、息子だけが死んでしまうというのが息子の自殺の原因であることは分かるのだけれども、それにしても別にロミオとジュリエットみたいにドラマチックでどうしようもない分断に曝されているわけではないのだけれども、当人たちからしたら子供である自分たちにはどうしようもない別離に曝される凡庸な苦痛に則るものであったりとか。そのありきたりな、当人たちの問題じゃないお別れに対して、父親も息子に寄り添ってあげることもなく、そしてまた息子が持ち出したように彼を彼女の引越先の地に送ってやるような金銭的余裕もなく、彼の恋を軽んじ、ただ彼の彼女への執着を引き剥がすことしかしなかったことが間違いなく静かに背中を押してしまったどうしようもなさ。残ったのは直視できない現実だけで、それへの拒否感しか示せない。息子の彼女には憎しみにも似た嫌悪感は確かに湧くけれども、だからといって頭ごなしに糾弾できることもなく、やはり拒絶するばかり。ここの心の引き裂かれ方にしてもとにかく地味なのだけれども、その地味さがいい味を出していたとも思う。地味な中でそれでもしっかり娘が静かに成長していっているというか、彼女なりに折り合いをつけていっているところが見えるようになっているのも良かった。
町の大人たちが緩くこじんまりとやっている(というか、そういうふうになるしかないくらいここにしても貧しさが先立っている)コミュニティー演劇も劇的な舞台装置になることはなくて、やはり地味に主人公と関わっていくことになる。
たまたま『ロミオとジュリエット』に取り掛かっていて、最初はその物語の内容すら知らなかった主人公であるとはいえ、別に強烈に拒絶感を示すことはなく、ただそれでもほじくられてしまうトラウマを前にして静かに拒絶感を示して、それでも物語を演じることを通してその拒絶感を乗り越えることになる。うまくいかなくなりそうになっていた娘とも妻とも、その活動を通してその関係が回復していく。
家族の枠の中に居る限りは遠くない未来で破綻が決定的になっていたであろう彼らがそれを回避できるように少しだけ道を整える。そこにコミュニティー演劇という社会があったというか。ロミオとジュリエットの死を演じることで、この二人の衝動は理解しかねるけれども、それでも少しだけ氷解するものはあったから、前に進める感じというか。結局、まだティーンエイジャーの少女とその家族を責めたところで、今のこの立場はいくらでも逆転する余白を持つものだったし、それでもこうなってしまったし、相手の少女も死ななかったことを恨むというよりも、息子も何とか息を吹き返さなかったことがただ悲しくて虚しくて、相手を責めたってどうにもならないし、少女を責めたいわけでもないし。訴訟騒ぎそれ自体は周囲に傷を作りながら、お金も散財しながら無に帰すような結末を招いたものの、そういうふうにやっと問題を正面から捉えられるようになった主人公が描かれるところにやはり静かながらに強い描写がありはするというか。
訴訟騒ぎが片付いた後に、夫がはしごを外したように相手への赦しめいたものを勝手に与えたことを目の当たりにして、妻が彼を責めつつ、私はちゃんと悲しむための余裕もなかったというようなことを言うのだけれども、本作で一番印象的だったのはここだったなあと思う。その言葉自体はやはり凡庸なのだけれども、あくまで平凡な内容である本作の中にあってはそういう地に足が着いたまま至るその言葉がじんわりと響くところがあるというか。結局、何が「私」を追い詰めているのか、生きにくくしているのか。どうしようもなさが、起きてしまったことに対して静かに悲しむことさえ許してくれなくなる。やっとちょっとだけその荷が下りて、そうしてやっとちょっとだけ問題を見ることができる(かもしれない)余裕が生まれて、できてしまった傷を抉られることへの拒絶が先立つことも終わる(かもしれない)こと。
ただ、ほぼほぼあらすじ語るくらいでこれ以上何を言おうかみたいなところもある作品ではあった。面白い映画ではあって、それは確かなことではある。
『ロミオとジュリエット』を中年が演じること、しかもそれが主人公の背後関係の事情と重なって否応なしに自分たちが直面したリアルの悲劇に思いを重ねなければならない荒療治になること、戯曲に対する自由な解釈がさらにこうした主人公たち自身の人生によって脚色されている感じとか。お金がないアマチュア劇団でもいろいろ頑張っていこうとみんなで頑張っている感じとか、これにしてもニコニコみんなでずっと仲良し集団ってわけではなくて、やっぱりちょっとピリピリしたところもあるけれども、それでも緩く繋がっている感じの意味での普通さが貫かれているところとか、うまくいかなくて破綻するところは破綻しているところとか。
お話が抱えてるもの、構成してる要素は繰り返すように面白いとは思うのだけれど、なんか微妙に味が足りないというか、何とも言えない雑味が目立つ感じで、感想が困るところがある。描写についていけないとか、その場面で展開しているものが理解できないなんてことはないんだけども。曖昧にしているところとか、映像として何を描いて何を描かないかみたいなのも妥当なのなのに、なんか引っかかる。でも多分この座りの悪さみたいなのが現実的な不協和音とそんなすっきり爽やかにはならない感じを反映しているとも言えるというか。要は、「これはこう」っていうふうにはしてないことからくる後味で、それは多分に意図的に狙ってやられてることだから、こうなって当然の感覚なんだろうとも思うのだけれども。なんていうか、あくまでお話としては前向きに終わってるし、あの家族は今後もそれなりにいろいろありつつもやっていくのだろうし、もしかしたらまた何か決定的な事件に曝されることもあるのだろうみたいな曖昧さがあるんだけれども、先なんて確固として明白なものではない人生のその道中に置き去りにされる感じを映画を通してまた追体験させられるというか、再認識させられる感じの引っかかる感じ。
なんだかちょっと不思議な余韻を残す映画でした。