今年は収入がまたえげつなくガクッと落ちそうで発狂する無能、2月の日記を付けようと思います。うおおおおおお
それはさておき、放っておいたらいくらでもブログを放置してしまうので、毎月のまとめみたいな日記(というか、やはり「所感」)を書くようにしようとして継続してはいるものの、書こうというネタのメモ自体は残してはいるものの、それをちゃんと文章にリライトする作業を折を見てちょこちょこ取っていって、さくっと上げられるようにしようとは頭の中では画策していても、なかなか日々にそういう時間は取れないもので、結局、月末~月頭にかけて結構な時間を取って書いているので我ながらド阿呆である。所感は負担にならない程度に気軽にポストしようということを一番の目標としているというのに……。特にいつでも投げてもいいような話題なんかもそれで結局、次のときにね……と延々たらい回しされているものもあったり。起死回生、リライトしてもろて……。
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"facilis descensus averno"「地獄へ下って行くのは容易いことである」
Facilis descensus AvernoNoctes atque dies patet atri ianua Ditis;Sed revocare gradum superasque evadere ad auras,Hoc opus, hic labor est.(ウェルギリウス『アエネーイス』126-129行、https://www.loebclassics.com/view/virgil-aeneid/1916/pb_LCL063.541.xml)
最近はとかくこの言葉が脳裏に過ぎることがいよいよ多くなりました。小規模なことでも、大規模なことでも。最近に限らずずっと隣の席に居るあの子状態ではありますが、それにしたって最近はいよいよ距離が近い。近過ぎる。私も人生の暗がりに迷うていたら導いてはくださいますか、ウェルギリウス。私にとってのベアトリーチェが居ないから無理か。
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SENKYO
今月はいろいろ例外的な解散からの第51回衆議院選挙が急ピッチで行われました。私はそれなりに病弱なので、外出するとなるといろいろ体調を整えに整えないといけないのでいろいろ大変だったんですが、行きましたよ。期日前投票だったのですが、これまでにないほどの長蛇の列ができていたのを見れたのは唯一良かった点でした(それでも投票率は低いようですが)。全国的に見ても有権者そっちのけの選挙で、どう見たって自分たちの都合が最優先されていたことといい、相変わらず四方八方失言や妙な思考にまみれていたのといい、頭が痛いことが続きます。思わず日記で触れてしまうくらいです。
現首相は、今月、自分が過去に発信したものをソースに記事(コラム)を書かれると速やかに全ての記事を削除するという対応をしては、それを指摘されればまた真摯ではない返事を弄したりともされており、「自分が発信されたものが分析されると不都合だからこれをまるごと削除してしまう」というのは少なくとも政治家の(しかも首相の)立場の人間がやることではないことだろうにと絶句するばかりでもあった(し、正直、これまで積み重ねておられた態度から想像できるものでもあったのだけれども)。その行為が自己保身や個人レベルを超えてしまう立場にあること、己の軽率さや浅慮さを誇示してしまうだけだということ、そうなることは想像するまでもないだけに、本人のみならず周囲の秘書などはどういうつもりでやっているのだろうかと考えてしまうのであった。「現在」をうまくやっていければ、うまく押し流してしまえればそれでいいのだろうか。そんな瞬間的な視野でやっていくもので果たして良かっただろうか。
もともと議会が議会としてまともに機能してるのかは昔から疑わしいところはあるのだけれども、それにしても不誠実であることをよしとしてまかりとおし続けて、言葉を捻じ曲げてでも自分のしたいことをやっていこうとするところには恐ろしさを感じている。
この数年はやっと少し落ち着いてきたかと思っていたけれども(※全肯定はしないが)、首相レベルで揺り戻しがあまりにも大きいというか。ここにしてももうずっと見てるだけで怖くなるような候補者が当然のように並べられてはいたのだけれども。
言葉の上だけでだけでも、あくまで防衛という前提にしても、大っぴらに「戦争」をすることに対して否定的ではないことを政治家が堂々と口にすることが許されているのも恐ろしい。当然、ただの理想論に堕してしまうだけの危険もあるけれども、意地でもそれを回避するべきではないのか。
なんというか、そりゃ昔からいつであれろくでもないところは多分にあるし、長年かけてどんどんそういう土壌が整えられてきていることも分かっているとはいえ、いよいよここまで落ちたかという。ただ暗い気持ちになっているのもあれなのだけれども、よくもまあこれだけしんどい世の中がいろいろのやり方でいろいろに醸成されているものである。
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ABEMA発オリジナルアニメ
WEB『Cyber Agent.』-「「ABEMA」、次世代アニメクリエイターとともにオリジナルアニメ作品の創出を目指す「Project PRISMation」を始動(2025/12/27、https://www.cyberagent.co.jp/news/detail/id=32873)」
「ABEMA」といえば、ネットでオリジナル番組を配信したり、ひたすらアニメだとか何かしらのジャンルをチャンネルを分けて流したりしているやつである。それで今回はオリジナルアニメの制作にも着手したらしい。このプロジェクトではパイロットフィルム(※ショートアニメの単発作品みたいなもの)を3作作成している。また、制作者も若手クリエイターで構成されている。公式YouTubeチャンネル上で書く作品は閲覧可能。
どれも尺の関係もあってストーリーはトントンとした感じで収まっているのだけれども、映像の画面作りに関してはどれも通常のアニメ作品よりも遊び心に富んでいる印象を受けるものだった。そういうところで普段のアニメからは違う空気感を感じるというか。
こういうオリジナルのショートアニメの発表みたいなのは「日本アニメ(ーター)見本市」なんかでもやられていることなのだけれども(例:WEB『YouTube』-「第34話「旅のロボから」トレーラー/日本アニメ(ーター)見本市(2015/11/10、ニコニコ公式チャンネル、https://www.youtube.com/watch?v=9VBZS8eGQ0E)」)、挑戦的なところがまず観ていてワクワクするのだなあと思うのだった。というか、業界的な意味でも、日本アニメ(ーター)見本市みたいな試みってもっと力を入れてほしいなあと思っているのだけれども……(発表された作品に触れやすい環境含めて)。
何はともあれ、こういう若手クリエイターの活躍の場みたいなものを今の時代だとABEMAみたいなものがこういう形で場所を作ったりするんだなあと思ったのでした。何はともあれABEMAがこれまでやってきていることの触手をそういう方向にも伸ばしている一環的な流れではあるのだけれども。
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『射精責任』
『射精責任』(ガブリエル・ブレア/著、村井理子/訳、齋藤圭介/解説、太田出版、2023年)を読んでいた。出版当時から気になっていた書籍である。内容はとにかく反論の余地は恐らくないだろうものであり、ひたすら、「中絶の問題ばかり、しかも女性の肉体を他人があれこれ干渉するようなレベルで取り上げるけれども、そこでなぜ受精させている男性の存在が希薄ないしは完全に無視されているのか」、「中絶に至る原因には受胎があって、それをするには理論的には精通後は死ぬまで365日射精が可能な男性が射精することは必要不可欠ではないか」、「いろいろ責任回避してはいるけれども、男性は積極的に避妊のための行動をしているのか」、「実際、女性はこれだけの負担とリスクにさらされているのに、それをあまりに軽んじてはいないか」、「射精に対して責任を持っているのか」ということをひたすら語る内容になっている。内容は決して難しいものでも、偏っているわけでもなく、あくまでこの問題について滔々と語っているものであるので、読んでいて、「マジで広く読まれてほし~~~」と思ったのだけれども、恐らくこれにしたって本当に読んでほしい人には届かないだろうし、頭ごなしに拒絶されてしまうのだろうなあと思うのだった(ただの被害妄想であるなら嬉しいことであるが)。
「コンドームっていう果てしなく装着者側にとっても性交場面においても危険度がそもそもなく避妊できるアイテムがあるんですよ~、しかも避妊アイテムの中で破格に安いし、いつでも手に入れやすい詩」レベルから切々と説かれてもいるのだけれども、この時点から語らなければいけないどうしようもない切実さが全体に横たわるものとなっている。
本書では巻末には多くのページを割いてアメリカや日本の中絶を取り巻く問題がまとめられていたりもするので、その点でも良い本でした。
中絶がどうのこうのと好き勝手に口論されてはいるけれども、そもそもそういうつらいことが起きないように予防すること、そこに着目することが大事ではないかというのは本当にそうである。性交することそれ自体が悪いのではなくて(極端なことを言えばビッチであろうが別にそれがこの点に関しては俎上に上げられていいものではない)、子供ができることを望んでいるわけではないのに避妊しないこと、多くのケースで見られるようにそれにしたって女性にあらゆる負担がある実情があること、そこが問題であること。
……本当に、読んで欲しい人に読んで欲しい(なんであれば誰であれ読んで欲しい)ところの話をなさっているなあと思う。というわけで、本書自体は本当に読みやすいタイプの本なので読もうぜ。女性に優しく、男は貶しという内容では決してなくて、あくまで、風邪気味のときに他人に風邪が映らないようにマスクをするように、自分の射精に「責任」を持ってくださいという話なので。
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『ハムレット』翻訳・続報
前々から、シェイクスピアの『ハムレット』のファーストフォリオ版を原文で読み進めていますという話を再三にわたってしているのですが(現在は王たちを前にして演劇を披露する場面のところまで来ております)、今さらながらに日本語への対訳本を購入しました。これも前に触れましたが、『ハムレット』(大修館シェイクスピア双書)と『ハムレット 対訳・注解(研究社シェイクスピア選集8)』の2冊である。シェイクスピア作品のややこしいところが、テキストが何を底本とするかで差分が生じてしまうところにあるのだけれども、まあ、それは踏まえてもどちらもそれぞれに参考図書として使えるようになっていると言える。
前者がページ左に原文、右に語彙解釈が必要な箇所のみひたすら羅列するものとなっていて、後者がページ左に原文、右に翻訳文というものになっている。私としては、頭から自分で原文で読み進めているのもあり、前者の書籍のほうが特に参考として引きやすかったです。こちらのほうが細かく語彙に対する注釈がされるので。
ただ、後者のほうはファーストフォリオ版の翻訳になっているのもあるので、その点でも他の翻訳本と比べても特異なところはあるとも思います。
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初詣のはなし(松尾大社→月読神社→桂地蔵)
私は生まれも育ちも京都市某所に住んでいます。氏神は松尾大社である。というわけで、今月は松尾大社に参拝していました。いろいろあって行けなくなっていて、(今年も大概そうではあったのですが、)無理矢理行きました。実に数年ぶりです。恐らく6年ぶり。かなし。
それなりに歩いた先にある近所には元は松尾大社がどうのというよりかは村落単位の産土神であったろう境外末社があるので、そちらに関しては結構こまめに参拝していたりはします。
余談ですが、古地図を見たりその上で散策したりすると、かつてあったはずの村単位の塊だとか境界、道の繋がり等々が薄っすら見えてきて楽しいのでおすすめです。結構、現代のまちづくりにどう影響してるかとかまで見えてくるので面白いですよ。
閑話休題。松尾大社は京都市内に複数ある各神社の氏子領域の中でも最大範囲を誇っていたりします(だから堂々と「氏子なんですわ」と言えるのですが)。特に市外の人からすると八坂神社がすごく目立ってはいるので、意外かもしれませんね。
市内の氏子領域の分布はおおよそ、松尾大社、北野天満宮、今宮神社、上御霊神社、下御霊神社、八坂神社、伏見稲荷大社、藤森神社辺りにざっくり分けることが可能です。松尾大社の氏子領域は市内の西側をがっつり大きく占めている特徴があります。他の氏子領域は西側でも中央寄りの北側にまとまっていたり、現在の街の中心あたりに結構密集していたり、下半分辺りにあるみたいな感じです。中心部に集中している氏子領域の神社と比べれば、松尾大社はかつてはゆるく西側郊外の村々を氏子領域として抱えていたのだろうなあということが伺えたりもします。
一応、京都市内の二大氏子領域として言われているのが、言わずもがなの松尾大社と、二つ目が、一応、稲荷大社とされています。稲荷大社の御旅所が京都駅南側、東寺近くにあるというふうに見てみると、結構な範囲を占めているだろうことは想像に難くないかと思います(余談になりますが、稲荷大社と東寺は関係が深かったりもするのです)。奇しくもと言うべきなのか、松尾大社も稲荷大社も遡れば秦氏に繋がるので、京都市内の歴史において秦氏の存在はかなり強いものながらに、今も強いんだなあとぼんやりと感慨深くなれたりもします。京都関連で古代にも関係する範囲で何か調べ事をしようと思ったら大体ぶつかる、それが秦氏です。
うんちくはここまでにして、そういうわけで松尾大社に参拝してきました。数年ぶりに行ったら、本殿裏手のちょっと禿げてた山が植林されてたり(ちなみに松尾大社はお酒の神様的なところが注目されがちですが、松尾山の磐座を祀る神社です。あと、創建した秦氏の関係上でもありますが、桂川の治水などにも関わっているため、水の神様でもあります)、山道が石畳から石畳風コンクリート(?)になっていたりと変化はありましたが、それでもやっぱり大きく捉えれば変わらない場所として在り続けてくれるので、訪れるとホッとします。
四条通をそれなりに東へと歩いた先には梅宮大社もあって、花の季節の時分には入園費用を払うのであればオススメの散策スポットでもあったりします(松尾大社も入園費用を払えばいろいろ近現代の名のある庭園が見れたり、紫陽花の季節なら紫陽花園も楽しめたりします)。そこからまた四条通を西へと帰るときに天気がうまい具合であれば、山の麓、長い橋の先に控える松尾大社の大鳥居が町並みに溶け込みながら霞も掛かって見えるときなんかもあって、割とあの瞬間なんかはぜひ見てほしいものよと氏子的には我が神自慢をしたいところなのですが、恐らくそううまい具合には見えないことでしょう。
先にも少し触れましたが、この数年で山道の石畳が去年くらいに石畳風コンクリートになったというのも実際に見たわけですが、思ったよりも石畳風に工夫はされてはいたものの、やはり圧倒的に石畳であったときのほうが風情があったので、ちょっと残念だったりもしました。恐らくメンテナンス面での妥協でこうなったのでしょうけれども。


御手水も昔は松尾大社の神使である亀の像の口からちょろちょろと水が出ていて、もちろん柄杓もあってという趣きがあったのですが、コロナ禍も経た現在では柄杓は取り払われて、なんか、御手水の上に伸びた筒から6人分くらい用に枝分かれした所から水が出っ放しで、まあそこで手を洗えよみたいなことになっていました(ついでに水も生ぬるいのが出るようにされていました)。他の人も居たので写真は控えたのですが、ここにしても昔の方が好きですね。神社で手を洗うときの作法は作法嫌いの私でも好きだったりもしたのですが。清めてるぜ感がなくなったからでしょうか。
参拝自体は適当に挨拶をかまし、氏子である立場に甘えた甘ったれた願望をぶつけにぶつけ、さらにぶつけ、改めて挨拶もしという感じで、まあそこは語ることでもありません。なむなむしてるときに好き勝手に言えるのはさすがに氏神どののみよ。受け止めてほしい。
そういうわけで実に数年ぶりにおみくじも引きました。普通のおみくじと変わり種のおみくじが数種あるのですが、前回に引き続いて白虎の人形が付いてくるタイプのおみくじを引いていました。京都市は四神に合わせて四社を選定していて、松尾大社には白虎が宛がわれているのです。ちなみにこの四神配置に関しては取って付けた感が強いだけで何か深い歴史があるとかそういうものではないと言えるものなのですが(厳密にいえばそこまで無視している展開ではないのですけれども~~~)、この四神関連の神社巡り推進みたいなものはもう十年以上(もしくはそれ以上)くらい続いているので、そういう意味では歴史があります。古代より西の重要な霊地として松尾大社に触れる記述があったりもするので、まあ、白虎を宛がわれるのも自然の流れではあります。というわけで、白虎を模したグッズ展開もいろいろされていて、可愛いのでウケています。神使そっちのけでおみくじ化もされているわけです。なんてこった。
ちなみに、おみくじは大吉でした。ほんまか?といろいろ思うものの、何やらいいことづくめで書かれていたので、恐らくドリームジャンボかキャリーオーバーしまくっているロト7に当たってしまうのかもしれません。お金でなくても何か安心が欲しいです、神よ。それはさておき、驕るなよと書いてありました。おみくじに釘を刺されるまでもなく普遍的にそれはそう。気を付けよう。
社務所では買おう買おうで後回しにし続けていた『松尾大社 神秘と伝承』(丘眞奈美/著、松尾大社/監修、淡交社、2020年)と『松尾大社展 みやこの西の守護神』(図録、2024年)も頒布(というかこういうのは普通に「販売」と言っていいのか?)されていたため、出費は嵩むもののこれらも購入しました。恐らく幾らかは神社に還元されるのだろうとも思うので……。それはさておき、松尾大社展、行きたかったんだよなあ……。
前者は神社の周年記念を兼ねて出版されたもので、研究書的なものではなくて、神社側も認識しているようなあくまで基本的な程度のものを抑えているような内容になります。とはいえ、コンパクトに多方面に松尾大社というものを抑えられるようになっており、そういう意味では唯一無二の一冊となっているため、興味があるならマストバイです。後者は松尾大社が長い時代の中でどれだけ京都の中の重鎮の一つとして機能し、歴史的に関わってきたかという片鱗を垣間見れるような内容になっています。有名人物の書状もいっぱいいっぱい。見に行きたかったぐぬぬ。
松尾大社を出てそのまま麓沿いの住宅街を南進して数百メートル先に、境外摂社の月読神社があります。ツクヨミノミコトを祀っている神社は結構レアだったりします。三神の中だとツクヨミノミコトがそりゃ好きである私としてはうれしいところです。ここも松尾大社同様に古くからある歴史ある神社です。今ではひっそり、こじんまりとしている神社です。かつては独立して勢力もある神社だったようです。
月読神社からはまた松尾大社方面に戻るか、そのまま東に進んで大通りのバス停に行くか、さらに南進してそこから最寄りの駅を狙うかなのですが、どれにしてもかなり微妙な所に位置しているのがこの月読神社でもあります(毎回のことながら、私は諦めて松尾大社方面に戻りましたが)。
健脚と時間と参拝のための資金があれば、南進ルートを取ってついでに地蔵院や苔寺周辺を散策することをオススメします。秦氏関連の古い墓地なんかもあるみたいで、墓場好きとしても一度は行きたいのですが、いまだに行けてはいないエリアです。そんなのばかりです。ぐぬぬ。あの辺りは嵐山(のしかもごく一部一帯)に人が流れがちなのですが、桂~嵐山一帯も見どころは山ほどあるのです。あるのでそういう所もよろしくと言いたいところですが、オーバーツーリズムにマジで疲れ切った市民としてはあんまり行ってほしいわけでもない。複雑なところです。二昔近く昔は月一くらいでほいほい伏見稲荷にまで足を延ばして歩けていた日々は今いずこ。かなし。
そういうわけで阪急電車に揺られて桂駅で下車し、またトコトコと歩いて桂地蔵にも行きました。こちらは幼少期ぶりくらいの期間を経ての参拝です。
京都は真夏に「六地蔵めぐり」なるいろいろな意味でホットなお盆イベントがあって、この桂地蔵はそこで定められている寺の一つになります。幼少期は母と祖母とにバスツアーに乗せられてしんどい思いでわけのわからぬまま京中を駆け回り、ストレスに耐えられなくなった弟がゲロっていた記憶もぼんやりと残っています。
なにはともあれ、桂地蔵さんはこじんまりとしている場所なのですが、ここにしてもやはりいろいろと歴史のある寺院でもあります。地蔵と言えば境界線上に立ちがちなものなのですが、ここにしても京都の六口という出入口を意識して立っていたりもします。
自然と世の中の安寧を祈っていたのですが、神仏を前にしたときに人々が思わず祈ってきたということも、年々なんだか我が身に実感してしまいます。自分の極楽往生がどうのとかそんなんはどうでもいいのですが、世の中がより善いものになってほしいと何かに縋りたくなる気持ち。全体が向上して、取りこぼされるものに対してのセーフティーネットも厚く広くなって、広く平和であること、平和であろうと希求すること。これらを望んで邁進しない限りは、仮に私個人が億万長者になったりなんだかイケイケに多方面に爆恵まれ愛され環境に居たところで、もしかしたら私「個人」は何の過不足もなく満足して生きられるかもしれないけれども、地獄の堂々巡りには救いがないままだと思うわけで……。こういったことに関してもことに近年は輪を掛けて考える機会が増えているので、しみじみとそんなことを考えながらお手手の皺と皺を合わせて特に幸せな気持ちにはならずに考えておりました。戦争に直接関係するものはもちろん、この数十年間の日本社会の展開においても、平和というものがあまりに軽んじられている気がします。
桂地蔵の近くにはあの桂離宮なんかもあります。見学しようと思ったら予約必須なので、ついでに足を延ばそうとは言えませんが、逆に、桂離宮を訪れた際にはついでに桂地蔵にも是非。あと、桂離宮南側にある和菓子屋「中村軒」がオススメです。有名な和菓子屋ながらにアクセスが限られているのですが、こちらもどうやら近年は割と混みがちなようです。ぐぬぬ。
あと、桂駅に戻る道中はうっかり道筋を間違えてしばらくてんで見当違いな方向に歩いたりもしていました。あの辺は道が結構網の目状で、方向音痴ならちょっと道を間違えたらなぜか南方に邁進してるとかあるあるなのです。無駄に周囲を確認しながら歩く癖があるので、行きしなにはあんないかにも美味しそうなにおいを発するうなぎ屋さんはなかったはずだと気付いていなかったら、あやうく陸上自衛隊の桂駐屯地まで行って、最寄りのシャトレーゼでお土産を買っているところでした。それならそれで冷聲院・三宮神社ルートを取りつつ桂駅に戻るだけではあったのですが……。
気になっていたパン屋さんに寄ったり(ヒントを出すと、ラタトゥイユのパンが大変美味しかったです)、ミスタードーナツに寄ったりもしていました。母が新商品好きなところがあるので、この時の期間限定品であった、ゴディバコラボのチョコドーナツだとかを買ったりしてましたが、私としてはこういうのって結局定番商品がちょうどよく美味いし満足度も高いんだよなあと思ったりしていて、この時も、ゴリゴリにチョコモリモリゲロ甘いドーナツと定番品を食べつつそう思っていました。
小さい頃は滅多にドーナツを食べられなかったのもあってドーナツポップ(昔は「Dポップ」とかそんな名前だったやつ)が絶対マストだったものですが、今となっては、気が付けば、そんな玉手箱よりも堅実に定番商品のどれかをスッと選ぶようになりました。ドーナツポップでものすごくわくわくしていた当時の感性を取り戻したい気持ちはあります。かつては本当に稀に入れた今は亡き新京極店の小さな店のその中ですごく心がはしゃいでいたものです。
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『The Big Issue』
『ビッグイシュー』という雑誌があります。イギリスで生まれたもので、ホームレスや生活困窮者によって路上で売られているものです。そういった人々が生活を立て直すための支援の側面が強いものでもあります。内容は有名人物のインタビュー記事や何か雑多な特集記事などで構成されているので、読んでいて楽しい1冊となっております。1冊500円で売られており、その半分が売り手に入るという仕組みです。通販でも購入できますが、そういうわけですので、無理にとは言いませんが、何か欲しい号があったときにはできるだけ路上で見掛けたときに購入することをオススメします(如何せんどこで販売しているかみたいなのは一部を除き確定的ではないので、難しいとは思いますが)。詳しくはWEBサイト(https://www.bigissue.jp/)を参照してほしいのですが、サポーターとして募金できたり、それとはまた別に認定NPOということで寄付金控除を受けられる形の募金もできますので、ご興味があればそちらもぜひ。
というわけで、『ビッグイシュー』を買いました。上記の小旅行で桂駅に行ったところ、駅の出入口でたまたま販売人の方がおられたのです。しかもこの時の最新号が520号(2026/02/01発売、https://www.bigissue.jp/backnumber/520/)で、スティーブン・キングのインタビュー記事を巻頭に掲載している号だったので、迷わず購入に至った次第でした。どの記事も面白かったのですが、特集記事の「「空飛ぶ微生物」のはなし(牧輝弥)」で、石川県には上空で採取した納豆菌で作った納豆が売られているという話に興味を持ったりしていました。「そらなっとう」という名前で販売されています(https://www.kinjyo710.com/product-page/%E3%81%9D%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%A8%E3%81%86%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%972p)。
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ドンデコルテ第九回単独ライブ「こびりつく」(2026/01/24収録)
現実をスワイプして観ていた。
ドンデコルテとは、2025年のM-1を何となく観たときに気になったコンビである。個人的にはそのネタのほうが気に入ったものの、世間的にはその前口上の内容(「40歳独身、貧困層に属します」)がとにかく取り沙汰されているところがあってやや複雑な気持ちにもなっていたりもする。
何はともあれ、漫才を見て引っかかるところがあったんだからもう少し観たいものよと思っていたので、思い切って単独ライブに手を出したのでした。録画を配信しているタイプのやつです。私と漫才の関係と言えば、おおよそ10代半ばくらいまでは土日のお昼頃にTVをつけたらひたすらやっている関西の漫才番組を観る(もちろん、吉本新喜劇もその流れで観ている)くらいなもので、売れているトップの芸人たちが次々に漫才を披露しているという、今にして思えばものすごい恵まれた状態で漫才というものに触れまくっていたわけで、逆に言えば、あれで審美眼ができた分、やけに漫才(ひいてはコメディー番組)に厳しくなったのもあると言えるわけでもあります。
それはさておき、ストリーミング配信とはいえ、チケット一枚の値段は私には安くはなく、しかも視聴期間もかなり限定的でぶっちゃけしんどいというのでやや博打ではあったのですが、それらの心配が払拭されるくらいに楽しめていたので、結構いい入り口にもなってくれていました。これからはもう少しハードルを下げて、気になったお笑いライブを観れそうな気がします。1時間くらいの内容に対して劇場で映画観るくらいのお金を払えるかどうかくらいなので(悲しいことにはどちらにせよ私の財布には厳しいのですが)。
このライブがたまたまそうなのか、その1時間の間に場面切り替えも兼ねて結構な虚無時間が合間合間に発生していたし、そこまでネタ同士に繋がりみたいなものもなくてぶつ切り状態だったので、去年視聴していたこたけ正義感さんの『弁論』はそういうのもなくひたすらスタンダップコメディーをしかも起承転結付きで展開していたのが特殊なのかしらともちょっと思ったりもしました。
このライブの中でも結構な割合で、売れなかった時代とM-1で一気に注目度が高まっていろいろ変わったことをいじるトークが多かったです。17年間も地中に潜っていたようなものなのにいきなり光が差している表に引っ張り出されたようなものでとにかく怖いということを繰り返していたのが印象的でした。
この辺りを聞きながらもしみじみ思ったのが、私はたまたまそのM-1をきっかけにドンデコルテを知ったばかりなので、もはやそれ以後の彼らしか目の当たりにはできないわけで、それ以前から彼らをフォローしている人たちの眼差しにはどうしたってなれないということでした。絶対的に感じ取るものが違ってくると思うし、絶対的に後者のほうが彼らの今後がどうなるにしろ何もかも楽しいはずなので。今はとにかく口を開けば売れるようになったことへの戸惑いを口にし続けているけれども、今後ここがどうなるか、前はどうであったのか。その辺がどうしたって見えてくる(し、そこに注目が行くように彼ら自身が話を持っていっている)んだもの。
彼らが表現する範囲の現状の感覚としては、「TV番組でアイドルと飯食ってるほうが血反吐吐きながら書いたネタの漫才をするよりも金をもらえているのが怖い」し、「TVでもらえるお金が異常なのではなくて、むしろ漫才が金をもらえなさ過ぎるのが異常なのだ」というのにしろ、とにかく急にポッと世間に持ち上げられていることの怖さにしろ、できればその感覚は持ったままでいてほしいなあと思えるものに徹しているものでした。あと、TVと漫才のお金のくだりで指摘されている歪みなんかは社会のあらゆる面で見られる歪み構造でもあるので、ほんまになと思いもした(そのTV番組にしても、演者とそれ以外の関係者のお金の構造なんかの格差も言うまでもないことであり)。
ネタの中で、暗闇の中で電球だけまとうことで自分という存在を無にする表現というものがあって、それが一番好みでした。確実にそこに誰かは居るのに、それが誰でもあり得る、誰なのかは分からない状態にある。そして少なくとも自分は「電球をまとった状態でいる」自意識を抱えているはずなのに、それすらも無にできるのが「追い詰められた状態なのだ」という、表面的には明るく振舞いつつも闇を抱えたネタである。根暗なものに共振するところが私にはあるので、かなり心にぶっ刺さっていた。……というふうに表現すると、世間的にウケていたM-1の口上の辺りに深みを見出しているみたいになってしまうので難しいのだけれども(あくまでも私はそこで「いいな」と思ったわけではない)。ぐぬぬ。
このライブの中で言われたわけではなくて、インタビュー記事での言葉ではあるのだけれども、「光はすぐに陰るんです。闇は長続きするんです。(https://news.mynavi.jp/premium/article/choices-3/)」というのが今のところドンデコルテの(特に銀次さんの)テーマにはあるのだろうなあ。
スマホを御神体に見立てて、その画面を通して社会と繋がる現代を皮肉交じりに捉え、「現実をスワイプしましょう」と嘯くネタも好みであったというか、やはりこの手の現代社会の暗いところを切り抜いたネタがうまいなあと思いもした。指先一つで嫌いなものは視界から排除してしまう怖さと、そうできるべきだという願望。
全体的には強めに内向きの感じがしていました。単独ライブというものがおよそファンをメイン層にするからそういうものになるからそうなるのかもしれないなとは思うけれども。上記したように、私はあくまでTVで延々いろんなコンビが次々と漫才をしているような番組に日常的に触れてきていたわけで、「関西の漫才番組」という意味での内向きは生まれる隙はあったかもしれないけれども、そこまでその場そのものに閉じたところが出るほどの隙はなかったんだなあと思ったのでした。
あと、薄っすらと、今後も長く応援したくなる人たちなのだろうかともほんの少し思ったところはあったのでした。どうなるだろうなあ。それもあってもっと昔から応援してたらここからではあり得ない文脈が築ける余白があるからええねという話をしてもいたんですけども、社会に存在するありとあらゆる「貧しさ」の中からだいぶんまともなところをネタに漫才はしてるんだけど、その貧しさの中でも何か強烈なライン分けみたいなものが生まれている感じの薄っすらとした君の悪さというか。そこが意図的であるのか否か、どちらにせよ詮無いことではあるのですが、内容的にむしろなんだかぞわぞわとしてくるものがあるという。本人たちはあくまでもかなり気配りしてはいることは窺い知れるのですが。そこまで厳しく捉えるべきものではないグレーさで薄っすら引っかかるものが妙にベターっとしていて、そこが私は気になってしまうというか。とはいえ、あんまりそこで好き嫌い(というか漫才コンビとして好感持つか否か)というのも詮無いというか。
あと、いつもそうしているのか、オープニングムービーとか日本風の昭和アングラ臭を出すデザインにしてたりしていたのも面白かったです。恐らく、自分たちの立ち位置をそういうふうに表現しているのかなとも思ったり。
ただ、ここにしても「がっつり」と言えるほどそこに切り込んでる感じがなかったりして、一つ一つのネタは面白いけれども、この単独ライブ芯はどこにあるんだろうなあとは思いはしたのでした。他の漫才ライブもそういうのが普通なのか分からんけどというところに戻ってしまうのですが。
【2026/03/04追記】大事なことを書き忘れておりました。このライブを観てても思ったのですが、渡辺銀次さんのフィラーを挟みつつちゃんと喋りながら慎重に喋っている感じの間の置き方がすごくちょうどいいというか、心地良い間の置き方だよなあと改めて思っていました。漫才ネタをやってる最中なんだからそもそもある程度ないしはほぼしっかりした形で下書きされたものはあるとは思うので、この辺込みであえてやっているならそれはそれですごいというか。それとそして彼と掛け合いをする小橋共作さんもそこを引き立てるのがうまいというか、彼の間の取り方を雑音的なものにさせないのが巧みで、なるほどコンビだなあと思いながら観ていたのでした。
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本館ブログ記事に投稿したもの一覧
【翻訳】ゲーム『九日ナインソール』(ゲーム本編外展開資料-7. 徐福竹簡)(https://attendre-et-esperer.hatenablog.jp/entry/translation_nine-sols_arg_yuuki_shanhai_the-end)
【翻訳】ゲーム『九日ナインソール』(公式動画「Shanhai Chronicles | Nine Sols ARG Documentary」)(https://attendre-et-esperer.hatenablog.jp/entry/translation_nine-sols_arg_shanhai-chronicle-documentary)
相変わらず、ゲーム『九日ナインソール』のARG展開の翻訳につきっきりの1カ月でした。やってもやっても終わりません。