【映画】再会の食卓【☆3】

タイトル
再会の食卓
原題
團圓/Apart Together
制作年
2010
制作国
中国
監督
ワン・チュアンアン
脚本
上同、ナ・ジン
原作
なし

データベース
Filmarks | allcinema | IMDb

補足

  • 本レビューの下書き用雑記メモは『Filmarks』に記録している。(該当ページ
    本文は上記のメモをきちんとした形に書き直したものになる。とりたてて整えるところがなければほぼそのままのものをこちらにも書いている。
  • 作品の商品画像部分および楽天ブックスへのリンクのみアフィリエイトリンクになっています。どちらも楽天ブックスアフィリエイトです。
  • 視聴日:2025/12/30(初視聴)
  • 評価:☆3

 

(※PV内の人物紹介は鵜呑みにしないで観るほうがよい)

 

きっかけ

 Amazonのビデオレンタルの100円セールのコーナーをチェックしていたら、面白そうだったので観ることにした。

感想

 12/30、Amazonビデオにて視聴。字幕版。

 作品紹介文のみではせいぜいなぜか台湾と中国とで生き別れていた夫婦が晩年になって再会することになるのだけれども……みたいなものくらいしか読み取れないのでかなり分かりにくいのだけれども、国共内戦や現代に至るまでの中国の歴史(戦争、文革など)が登場人物たちの背景にある作品である。生き別れの夫婦もそもそもこの国共内戦をきっかけにしたものによるし、中国に残されてしまった妻は「国民党の兵士の妻」のレッテルの下で赤子を抱えて苦労し、彼女と結婚した共産党側の兵だった夫もその影響で苦労してきたという、多分に社会動向を踏まえたものとなっている。そのへんの心構えができていなかったので、冒頭でいきなり20世紀のそのへんの時代背景をざっくりと説明する字幕が流れたときにはかなりびっくりした。というわけで、ドラマに近代の歴史的・社会的な要素を絡めたもので、恐らくは今にしても生々しい記憶もあり、こうしたことが事実として起きただろう人たちもいただろうことは想像にも難くないものとなっている。てっきり、既に再婚している妻の家を訪れて交流するということで、緊張感はありつつも晩年の人々の穏やかなやり取りみたいなドラマを描くものかと思っていたけれども、何から何までさりげない重たさがあるものだったのでかなり予想外の内容だったのだけれども、楽しむことができた。

 原題は「團圓」、英語タイトルは「Apart Together」。ちなみに英語タイトルは制作時点で既に考えられていたものらしく、タイトルが現れる時点で一緒に併記されている。團圓は要は「団欒、寄り集まって一緒に食事をしたりすること」という意味の語彙で、Apart Togetherはそれに反するように「一所に集まったのに別れる」ような感じをにおわせるものになっていて、原題と英語タイトルをセットにして本作の内容を表現したものになっている。
 本作はまず中国という一つの国の中で起きた大分裂・大分断によって夫婦が海を隔てて分かたれ、そして台湾は台湾でそれから長く日本や中国の支配下の中であまりにいろいろなことが起きるのだけれども、対する中国の中もそれは同じで、共産党の台頭と共に今にも続く分断に次ぐ分断、無理矢理の統合といったものが繰り返され続けていて、夫婦はどちらもその荒波の中で生きてきてそれぞれに現地で新たな家族を作ったりもしていて……というものになっている。つまり、本作はそういった混乱そのものを主人公たちのキャラクターの中に落とし込んだものにもなっている。だから、最終的に妻の家族が最後にはばらばらになってしまう、繋がることはできるはずなのに分断してしまう、高齢の夫妻が古い家を潰されて半ば追い出されるようにして無理に買った高層マンションの白々しい明かりの中に取り残されて生きるといった決して明るくはないラストはかなり象徴的な意味合いを持つものになっている。
 妻が元夫と結ばれて台湾へ渡ることを諦め、生活の苦しみを共にしてきた夫と共に生きることを選び直しても、そこに何の救いも与えられはしない。そもそも本作の中で一家を搔き乱すことになってしまう元夫(元妻への配慮もあるのだろうけれども、台湾の妻が亡くなってからやっと元妻に連絡をしてきたような人物である)が現れなくとも、恐らくこの夫妻が取り残されるラストは避けられなかったのではないかという家族内の歪は随所に描写されるところのものとなっている。本作ではあくまで中国内の分断、中国と台湾という要素を夫婦の生き別れというふうに描き直すことでそうしたところのものを強調し直しているだけである。病巣は既に舞台となる中国の「家」の中にあるのである。こういう形で「家族」というものを通して社会の皮肉を描いているのが本作はなかなか面白かった。
「家族」のまとまり、地域の交流。そういったものはいろいろの自縛も伴いつつ保たれていて、実際は容易に起きる紛争の分裂と同様に儚いものでしかない。一緒に暮らしていれば真っすぐに共に生きていきたいと言えるだけの愛情が芽生えるわけでもなくて、ギリギリの中で結びつきは保たれている。
 かつては国民党の兵で長らく遠方の地に居た元夫は地域ぐるみで歓迎されて昔ながらの地域に迎え入れられ、互いにぎこちなく元妻一家の歓待を受けもする。この時点でそれが何か温かいものがあるかというとそうでもなくて、ほとんどの者たちにあるのはただ義務感に近しいものである。地域で生きている元妻一家にしろ、明日には地域のものにしろその繋がりがなくなってもおよそ何にもならなさそうな些末さがある。古い町並みを破壊するスクラップアンドビルドは人々の繋がりをも破壊するものではあるのだけれども、そのあっけなさを本作はやはり家族の描写を通すことで暴露してもいるというか、人々を濃縮してまとめておきながら互いの繋がりを完全に断ってしまう「マンション」という構造のようなものが実はもう既にあって、ないしは容易にそちらに転がれる状態にあって、それでも何とか堪えていたものがいよいよ崩壊する方向にまちづくりも人々の関係も進んで行ってしまうものを描いているというか、文革時代などに分かりやすく表れているように、そもそも破滅的に容易に転がっていた他者との関係性が、いよいよより他者への無関心へと寄る方向になってしまっている冷たさというか。
 作中、少なくとも元妻夫妻と孫娘だけはこの一家にとって異物的存在である元夫の来訪にあからさまな忌避感を示しはしないし、むしろ真っ当に歓待を行っている。元妻の夫などは言葉の端々に執着や恨み言は滲ませてしまってはいるものの、それでも結果に対してどうなろうとも受け身であり続けようとしている(その物わかりの良さが「いいもの」として描かれているわけではない)。「一人になってもいい」とは口先では言っているものの、「妻」という存在(というか道具とも言えよう)に甘えているところがあるところも垣間見える描写だってある(※亭主関白というように家の中で自分のことすら何もしねえカスみたいな存在というわけではないが)。妻に全ての判断を委ねているのは、観ていてところどころでは無責任とも映るほどでもある。宙ぶらりんになっている妻が自由と言えるだけの土壌なんてあそこにはありはしないだろう。だから、結局、元夫よりももっとずっと一緒に暮らしてきた現夫のほうを選んだ彼女の選択には多分に自縄自縛や周囲環境の結果というものだってやはりあることは読み取れるわけで、結局、彼女はかつて元夫と強制的に社会によって分断されたそのときと今も変わりはしないまま晩年にそれを再び味わうことになったとも言えるわけである。このどうしようもなさ。
 本作には諦念のような空気感がずーっと横たわっていて、どうにもならないものの中でみんなが息をしている。物語最後、元妻、元夫、現夫の三人だけで卓を囲み、そうした重たさを払うようにやたらと歌い続け(そこにはむしろ何か脅すように何かを振り払おうとしている怖さもある)、そのしつこさが虚しく続くけれども、そんなもので事態はどうにもならなくて、結局、幸福なんていう美しさからは程遠い現実がすぐに顔を見せる。最後にみんなでわざわざ外で卓を囲んでいたときも、歌を歌うことで無理矢理この場を何か良いものにしようとした途端に雨が降って何もかもが駄目になってしまって途方にくれるというのも多分に象徴的でもある。
 元妻と現夫は実は時代の混乱の中で法的な意味で結婚できていない事実婚の状態のままだったから、もし元夫のほうに付いていくつもりならどうにかして離婚を「社会」に認めさせなければならない。だから今から結婚手続きをしなければみたいなむちゃくちゃさ、自分たちを無視して社会に左右されてしまうことだとか、そこの描写もうまいなあと思いながら観ていた。

 他者に干渉しているのかしていないのか、結局のところ自分の都合をぶつけているだけの家族たちはマンションに引っ越した老夫婦の下へと訪ねる足も遠のき、「当然集まるもの」という前提で用意された、恐らくは元妻と孫娘だけで用意した多過ぎるごちそうは虚しく明かりに照らされていて、一年前は元気だった現夫も見る影もないほどに衰弱して、衰弱しながらも強がるように相変わらず現状を受け入れている。生きるためには食べなければいけない、食べないと何も始まらないというようなことをこの現夫は作中で繰り返し口にしてきたものの、物語の結末はこれである。三人だけで囲む食卓の空気は相変わらず空元気にも似た沈痛さがある。まるでこの夫婦の人生がずっとそういったものだったように。ばらばらに解けて、愛情とも言えない何か曖昧なものの下に一つに集いながら。