【映画】しあわせの百貨店へようこそ【☆5】

タイトル
しあわせの百貨店へようこそ
原題
Ladies in Black
制作年
2018
制作国
オーストラリア
監督
ブルース・ベレスフォード
脚本
スー・ミリケン、ブルース・ベレスフォード
原作
小説『The Women in Black』(Madeleine St John、1993年)

データベース
Filmarks | allcinema | IMDb

補足

  • 本レビューの下書き用雑記メモは『Filmarks』に記録している。(該当ページ
    本文は上記のメモをきちんとした形に書き直したものになる。とりたてて整えるところがなければほぼそのままのものをこちらにも書いている。
  • 作品の商品画像部分および楽天ブックスへのリンクのみアフィリエイトリンクになっています。どちらも楽天ブックスアフィリエイトです。
  • 視聴日:2025/12/15(初視聴)
  • 評価:☆5

 

 

きっかけ

 恐らくフェミニズム的なところから切り込んでいるらしいので前から気になっていた作品。Amazonビデオで100円セールの対象になっていたので、観る。原作は未読。

感想

 12/15、Amazonビデオにて視聴。字幕版。

 そもそもあんまり信用してはいけないんだけれども、邦題とポスターの雰囲気からコメディー色が強いのかしらと思って観始めたのだけれども、どっこい、1959年のオーストラリア・シドニーの百貨店の婦人服売り場で働く女性たちを主要登場人物として焦点を当てて「彼女たちが一人の人間であること」を描く、しっかりしたドラマだった。原題が、デパートでの彼女たちの服装に倣って「Ladies in Black」であったりして、華やかで高価な服に囲まれてそこの店員として存在する黒ずくめに統一された彼女たちの美しく規格統一されてただそこでサービスしている存在性を表しているその表題に対して、いやいや、そこにいるのは一人の人間で、美しく清潔に取り澄ましたその存在一人一人には血肉の生々しいまでのいろいろの生活があるんですよということを丁寧に描き上げている作品だったとも言い換えることができる。とにかくしっかり見せてくれるドラマ作品だった。一つの場所に仕事を通してたまたま一緒にしばらく居合わせていた人たちの交歓と、一人の人間であるからこそある光も影もある人生の描写の仕方がとにかく本当に好みだった。話の広がり方がすごいさらっとしつつそれぞれに芯がある。

 主役級の人たちは複数人居るのだけれども、それでも特に軸となる主役にあたるのは、このデパートの婦人服売り場で忙しい年末の時期だけ手伝い的な立ち回りで短期間だけ働くことになった、要はその世界に外からやって来た少女である。彼女は普通のオーストラリアの家庭出身で、ハイスクールを卒業して、その後は本人としては大学進学をしたいとは考えているものの(しかもオーストラリアの中で一番の優秀な大学と言えるシドニー大学)、それもただ単に試験結果でどうなるかという問題だけではなくて、家庭や女という縛りから先が見えない宙ぶらりんの状態で居るその最中にあるという人物である。彼女は、己の人生がどうなるかも分からない変わり目のその最中にこのアルバイトを行っているというポジションにある。進学希望だけあって学問的な知識に関することへの興味は積極的で(むしろこの点においては婦人服売り場の店員たちとやんわりと差があることも伺えるようになっている)、事務処理の手際もいい。ただそういう女性の「典型的」な垢抜けない雰囲気が最初にはあって、それがここで働いていく過程を経て垢ぬけていくみたいな描写もある。
そしてこういう、そんなに目立った動きなんか一切することはなくて普通に接しているだけの外からの新風によって大なり小なりの影響を受けながらそこに居る他の女性たちの人生の進展において彼女がいなければ生まれなかっただろう変化も含みつつ、その人間模様が描かれていく。ただし、とにかく地に足の着いた、なんでもなさの範囲で。本作はあくまでドラマティックに何か派手に物事が動くことはないけれども、個人レベルでそれぞれに何か特別な瞬間が訪れたり訪れなかったりする(主人公が進学できるかどうかというのがそもそもそうだ)。そういうところがとにかく私としては好きだった。

 あと、特に「女性」というものに対して圧し掛かっているものが描かれてはいるのだけれども、それだけじゃなくて、その土地ゆえの偏見意識(オーストラリアという国の成り立ちに関するもの、自分たちもそもそも移民であるのに、戦後にやって来たヨーロッパからの移民たちに対して差別意識があること、移民たち側もオーストラリア人たちを「野蛮で学がない者が多い」としていること等々)、人と人との折衝、生きていく中で何となく出来上がっていた固定観念と、ふとした拍子に少しほだされるその揺らぎみたいなのを、ドラマに乗せつつそれらをかなりの描写を重ねていて面白かった。私は人間ドラマが好きなので、いかにも特殊な物語の上で成り立つものとしてそうあるのではなくて、あくまでも派手さはないままに人間が生きていることを描くものが好きであり……。

 本作はあくまで「1959年の時代の範囲」を描くので、物語としてはそれぞれに前には進んでいるものがあっても、同時に、まだずっと特に女性に対する呪いというものが存在し続けていること匂わせもしている。独り身の男には女を差し出し(逆に言えば、独り身の男というものをあり得ないとするマッチョイズム、結婚したところで他者が彼を見たときにうだつの上がらない男に見えれば平気で嘲笑するマッチョイズムが存在する)、結婚すれば・妊娠すればそこで何年間の経験を蓄積してもキャリアは終わり。進学だって何の意味があるんだろうと考えている父親の顔色伺い。破綻まではしていないけれども、家庭の中に押し込まれている主人公の母親の母性の無力な虚しさ、温かさ。でも、それらさえもあくまで「故意に」ハッピーエンドの形でそれを見せる作品となっている。そして登場人物たちにしてもその時点では確かに各々に幸福を感じているはずではあるものでもある。これからを担って進学していく主人公が、デパートのチーフ的な老女から未来の女性という、若くて未来のある主人公自身は恐らくその言葉が持つ重さの一部しかまだ理解できなかっただろう重荷を託されていたように、あくまでここがゴールなんかじゃなくて、ずっとそういう前進は続いていく。それを「現代」から見てそのハッピーエンドをちゃんと批判的に見られるようにしている仕組みになっているのも面白かった。自由へと、幸せへと進もうとして光の中に僅かに進めた彼女たちにはまだまだ数多のしがらみがある。それがちゃんと分かるようになっている。

 本作は年末の話なので、途中、クリスマスというビッグイベントも登場するのだけれども、クリスマスはどう過ごすんですか?みたいなやり取りの中で、偉い立場に居る女性が、「家族と過ごしますよ」と華やかなデパートの一角で話してはいても、実際は母親と二人きりでしかもだいぶ暗く沈黙した時間を過ごしていたりとか(嘘はついていない)、その彼女が、上記でも触れたように、人生がこれからで光に満ちて祝福されている主人公に語り掛ける、願いのような呪いのような言葉とか、最後の最後に、店員たちは移り変わりがあっても、私たちはずっとここに居るんですねという老齢のオーナーか何かに話し掛けられるところのズンとした重さとか(ここにしても、そうやって移り変わっていく店員たちが決して自由な鳥のような存在だからただ来ては過ぎて行くわけではない、それが何がいいわけでもないということもちゃんと観ていたら分かるはずである)。
 主人公が読んでいたから今まで触れなかった文学に触れて、一気にのめり込んで世界が僅かに広がる女性が、「賢過ぎることはない、洗練され過ぎてはいない、教育の余地を残したオーストラリア女」として難民としてやって来た独り身の男にあてがわれて無事結婚に至るとか。本人たちは恐らくあくまで愛を真っ当に育んで幸せでも、引っかかるところがいちいちあるところとか。あそこにしても「男が上」というふうに展開していることは分かるはずである。男のほうが賢くあるべきで、文化的であるべきで、導く立場であるべきで、経済的に安定なんか全然してないのに、結婚したら女は仕事を辞めるべきで、間借りしている家で窮屈に暮らしている女性に家という物理的なものを見せながらプロポーズだってする。まだ少女だった彼女が渡英したときに金持ち男に囲われて家を与えられて性的搾取をされていた構造と実はあんまり大して変わらないところがあるはずなのだ(遥かにマシな形はしているだけで)。
 他にも、このデパートから先へ進んでいく祝福される主人公にすら、本作の最後の最後に、暗に、「女だから」という偏見で、有名大学に進学はしてもこの学部に行くんでしょというレッテルありきで会話をしている感じがベタッと貼り付いていたりとか、幸せそうな描写の中でもいちいちチクチク刺してくるものがある。
 男と女の性差別以外にも、「文化人で洗練されている、大陸から来た私が、オーストラリアの女性たちを洗練させてあげるの」という態度で居るようなところとか、とにかくいろいろが同時進行して描かれている。
 59年を舞台に、人間の歩みと既視感のあるようなものの踏襲と、結局問題は後ろ暗く残り続けていても、影はあっても、それでも少しずつ歩いていこうとしていく光を描いている作品で、非常に楽しめた。繰り返すように、人間関係の描き方が一番好みだったんだけども。摩擦して、破裂はしないように互いに距離を取って、妥協して、慎重に扱って、そうしてなんとかやっていく。その中でちょっとだけ何かがやっと変えられることもあるという。表面的に何かあからさまに問題が表出するわけではなくて、あくまで職場でやっていける程度にはお互いがお互いに対する嫌悪や無理解があって確執が生まれていて、相手は相手のことなんか分かんないままおしゃべりして、嫌って、陰口も叩いて、誰かとはそれなりに仲良くもなって、たまたま何かに触れて感動もするという、そういう「普通さ」。

 第一印象は何となく取っつきにくくても、誰も性格やら内面性がどブスなわけではなくて一人一人いろいろあるのよね、一人一人はどちらかというとむしろ善人で、それでもなぜか生きにくさがわれわれの中で生まれてしまっているんだよねということが明かされていく方向で話が進んでいく、生活と地続きの優しさで包んだような作品だった。思いがけず本当に面白かった。
優しくそういうふうに描きながらも刺すところしっかりちゃんと観てれば読み取れるように刺しまくれるのがすごいなあとも思うので、ほかの作品も観てみたくもなっている。興奮したい。

 ただ、他の人のレビューを読んでいて思ったけれども、作品の構造として主人公が何を担ってるからこそあの婦人服売り場の一部の面子の人生が描かれていったかみたいなのがそもそも読み取れないまま、なぜかみんなの事態が好転していくみたいな雑なハッピーエンド作品というふうに思われているところも一部あったりするんだなあと思った。私としては、頭からそんなキラキラしたお話なんかじゃなくて、むしろその表面的なものを剥いでいるお話だと思うのだけれども。
本作がどういうところを狙っているのかというのは単純に観ていてもチクチク刺しているところはかなりあるのだけれども、それ以外にも外部作品を通じてそこを強調・補完しているところがあって、例えば、作中でどうしてやたらと『アンナ・カレーニナ』が目立つようにタイトル出されてるかとか、なんであのオーストラリアの外からやって来た人々の会話の中でついでのように『エマ』だとかが出てきたかとか、映画作品だとクレマンの『居酒屋』とか、本作の立ち位置がどういうものなのか、とかく駄目押しのごとくそこでいくらなんでも気付けよとあの手この手でされていたわけであり。
それらの仕組みに気が付かないことで積極的に物語全体で仕掛けられている仕組みの当事者にもなってるようなものなので、ある意味、本人はそうなっていることにすら気が付かないというところも含めて皮肉になるというか、強度のある作品だなあと思ったりした。